01



『真の恋の道は、茨の道である。』
―ウィリアム・シェイクスピア―


私の日常は朝起きて天井を見上げることから始まる。
自分の体温で温かい布団と朝日に包まれながら、染み一つないオフホワイトの天井を寝ぼけ眼で見上げていると丁度1分後に目覚ましが鳴り響く。
今日も時間通りの起床。絶好調だ。
ヘッドボードに手を伸ばして目覚ましを止めると体を起こした。

「よし!」

いつもと何ら変わらない一日の始まり。
体内時計がもうそろそろ起床の時間だと教えてくれているのだろうが、目覚ましが鳴る前に自然と体が起きる。
一年前の私もきっちりした性格だったらしい。

キッチンに立つと、オーブントースターに食パンを放り込んでタイマーをセット。
やかんに水を入れて火にかけ、その間に洗面所で顔を洗った。
さっぱりしたところでキッチンに行けばやかんが私を呼んでいて、お気に入りのマグカップを戸棚から取り出してインスタントコーヒーを目分量でいれて火を止めたお湯を注ぐ。それからたっぷりの牛乳も。

「げ、焼きすぎた。」

端が若干焦げた食パンをトースターから取り出して軽く焦げた部分をスプーンでこそぎ落としてお皿に乗っける。
冷蔵庫からバターとジャムを出して椅子に座って温かいパンに塗って囓った。
テレビをつけて今日の天気と運勢を観て、その結果に一喜一憂する。
どうせ仕事に行く頃には忘れているのに。
しかしコーヒーを啜りながら携帯を手に取ってしまう癖はどうしたものか。
手に取る必要はどこにもないのに、何故か必ず携帯を掴んでしまう。
一年前の私のことなんて今の私にはさっぱりわからない。
今日も今日とて首を傾げながら手に取った携帯をテーブルの上に戻し、食器を洗うと今度は歯を磨きながら軍服に着替える。
うがいをしてドレッサーの前に座って化粧を施し、髪の毛を梳かせば準備は万端だ。

「いってきまーす。」

一人暮らしの悲しい性。
返事はもちろん返ってこないのをわかっていても呟いてしまう。
これが私のこの1年間の日常。
しかし私はこの1年前より以前の記憶がない。

というのは語弊がある。
正確に言うと幼い頃の記憶はあるが、この日常より以前の2年近い記憶がないのだ。
記憶失くしてから今日で1年が経ってしまった。
士官学校を卒業してこの歴史博物館に配属希望を出し、見事希望通りに配属された。
産まれてから配属の2年後くらいまではちゃんと記憶があるのに、そこから2年間の記憶がすっぽり抜け落ちてしまっているのだ。
空白の2年の間に自分が誰と出会って、どんな感情を持っていたのか全く覚えていない。
記憶を失くして半年は思い出そうとしていたのだが、思い出す兆しも見えなかったためその後は前を向いて歩くことに専念している。
お医者様にも相談したが、失くした記憶を取り戻すということはとても難しいことらしい。

「おはようございます。」

「おーおはよう名前ちゃん。今日も1番乗りだね。」

誰よりも先に着いたので窓を開けたりしていたら、3歳上のアオイさんが出勤してきた。
たった3歳上と侮ることなかれ。姉御肌な彼女は私が記憶を失くしてから最も良くしてくれた人物だ。
2年も経てば仕事内容は変わるもので、2年前の仕事内容しか覚えていなかった私に再度丁寧に変更点を教えてくれたのは彼女である。まったく頭が上がらない。

「今日は天気良いねー。」

「だからってデスクに突っ伏して寝ないでくださいね。館長が来ないかハラハラするのはこっちなんですから。」

苦笑する私にアオイさんは「その時はフォローをぜひよろしく頼むよ」とウインクを投げた。
私が働くのはホーブルグ要塞の外れにこっそり聳え立つ、バルスブルグ帝国歴史資料博物館。
帝国誕生から発展、そして現在までの歴史が記録され、その資料が保存されている。
一見暇なように見えてその実大変な仕事だ。
他国からの観光客の予約が入った時は忙しい。
基本は好きに見て回ってくださいねと放任だが予約客には案内だけではく、軍人には貴重資料以外の資料の貸し出しも行っているため、本に痛みがあれば修理をし、利用者が調べものや探し物で困っていればレファレンスを行う。
良いのは閉館時間が決まっているから基本的に定時に帰宅できることだ。
困ることといえば、

「それから帝国はラグス王国に踏み入ってね、」

説明を求められればその都度答えるが、面倒なのは自分の知識を聞いてもいないのにペラペラと捲し立てるように話しはじめる帝国オタクに「へぇ、そうなんですか。すごいですね。」と適当に相槌を打って躱すことだ。
ぐったりして貸出カウンターに逃げ戻れば「ご苦労さん」とアオイさんに肩を叩かれた。

そうして午前中を過ごしていると、彼はやって来た。
軍人の中で知らない人を探す方が難しい程の地位にいる参謀長官である彼は、遠征時を除けば1週間に1度は必ずこの歴史館を訪れ、資料を借りて行く。
戦争、政治、風習、民話など、特にジャンルは決まっていないようだが余程帝国の歴史に興味があるのか。さすが参謀長官だと尊敬の念を抱くばかりだ。
地位の高い軍人から資料を持ってくるように言われれば持って行くし、返却の際は引き取りに行くこともある。
なのに参謀だけはいつも足を運んでくれる。
こちらとしては仕事が一つ減って嬉しい限りだ。
そんな彼は先週貸しだした本をカウンターに座っている私に返却するなりすぐに踵を返して書架の方へ歩いて行った。
果たして今日はどんな資料を借りて行くのか。
その凛とした後姿を自然と目で追う。

たまに思い出すように考えるのは記憶を失くす前のこと。
私は空白の2年をどうやって過ごしていたんだろうか。
何を見て、何を知り、何を喜びとしていたんだろう。
どんな風に過ごして、どんな風に考えて、どんな風に感じていたんだろう。
前を向いて歩いて行こうと決めたとはいえ自分のことだ、気にならないはずがない。
ボーっとしている内に参謀長官はこのカウンターに戻って来た。
彼から考古資料と軍人IDカードを受け取り、貸出手続きを始めればまたあの感覚が不意に襲ってきた。
ずっと何かを探している。
時々そんな焦燥が胸を掻きたてて苦しくなる。

「名前先輩よく長官に平然と貸出できますね〜。」

参謀が歴史館から出て行くなり、同じカウンターに座っていたイズミちゃんが話しかけてきた。
元より利用者が少ないため、利用者がいない間は和気藹々とさせてもらっている。
アタシ、緊張してダメです〜。と首を横に振る彼女に「そのうち慣れるよ。」と微笑みを返す。

「あー僕も駄目ですね。こう空気が凍るって言うか。」

配架に行っていたシンくんが戻ってくるなり会話に参加した。
私は特に緊張したことはないが、どうもこの2人は参謀が来るたびに萎縮してしまうらしい。
1年前にこの歴史館に配属された2人とは、記憶を失くしたばかりで仕事内容に狼狽えていた私と共にアオイさんに学んだ仲だ。
私の方が先輩だと彼女たちは言ってくれるが、おかげで同期のような雰囲気もある気の知れた関係である。
アオイさんと若い2人とそして私。
この4人でこの大きくもない歴史館に従事しているわけだ。

「ちょっとシン。たった数冊の配架に時間掛かり過ぎじゃない?」

「わり、長官が怖くて隠れてた。」

「ずるい!」

私なんて怖くて先輩の横で空気になるしかなかったんだからね!と騒ぎ出す2人だったが、利用者が館内に入ってくるなりピタリと静かになった。
これもアオイさんの教育の賜物である。

「名前!」

入ってきたその利用者に『え、誰。』とこの場にいる3人が目を丸くした。
利用者といっても軍服を着ているため関係者なんだろうが、どうにも思い出せない。
亜麻色のサラサラした髪の彼はカウンター越しに私に駆け寄ってくるなり抱きしめてきた。
私は椅子に座ったままなので不自然な抱擁だが、熱意は伝わってくる、嫌というほど。
知り合いなんだろうが、記憶のない私からすると知らない人なわけで、狼狽するとともに不快な気持ちになった。

「ただいま名前。会いたかったよ。」

ついには頬にキスされそうになったため、どうにか手彼との間に手を入れて避けると「相変わらず連れないな。」と、だが嬉しそうに笑った。

「1年も遠征が長引いて…キミからの連絡はないし寂しかったよ。」

1人勝手に会話を進められている中、イズミちゃんは「誰。」と呟いた。
それなのに目の前の彼はイズミちゃんを一切気に掛けることなく「元気にしていたかい?」と顔を覗きこんでくるものだから、私は「はぁ、」と曖昧に返事を返しながら彼の腕の中から逃げた。

「どうしたんだい?いつものキミらしくないじゃないか。」

「あのですね。大変申し訳ないんですが、」

「嫌だなぁ敬語だなんて!僕と君との仲じゃないか。」

一体どんな仲なんだろうか。
とにかく人の職場で騒ぐのはやめてほしい。
隣にいる2人からの目線が痛い。

「すみません、私1年前にここ2年ほどの記憶を失くしてしまって。貴方の事…その、」

覚えてないなんて、知り合いに言われることの何と酷な事か。
言う方も言われる方もきっと同じ痛みを要する。
言い淀んでいると、彼は二重の目をぱちくりとさせて「覚えてない?」と小首を傾げた。
万人受けするような整った顔をしているだけにその仕草も絵になる。

「はい、ごめんなさい。」

彼が「そう…」と真顔になったかと思うと、すぐに微笑みを浮かべて手を差しだされた。
握手だ。

「改めてリヒト・ツェンガー。君の恋人だよ。」

今度はこちらが目を丸くする番だった。

- 2 -

back next
index
ALICE+