02



『愛は永久不滅なもの。姿形を変えることはあるが、本質は変わらない。』
―フィンセント・ファン・ゴッホ―


目が覚めると何故か病院で、まずどうしてこんなに自分が痩せ細っているんだろうと窓ガラスに映った自分を見て疑問に思った。
これは私か?と疑いすらしたものだ。
頬がこけ、肌や髪に艶がなく。生気がないというのはこういうことなのか。
パサついた髪を手櫛で撫でると、緩かった指輪がスルリと抜け落ちた。
果たして私はこんな指輪をしていただろうか。

見覚えのない指輪を見つめていると、私が起きたことに気が付いた看護師さんが軍医を連れてきた。
それからだ、私のここ2年の記憶がないということに気が付いたのは。
何故記憶を失くしたのかすら覚えていないためどうしようもない。
しかも栄養失調だとかでしばらく入院したが、その間先輩のアオイさんがお見舞いに来てくれたし、住んでいる区が違うのに両親も駆けつけてくれた。
皆どこか大人びていたり歳を取っていて、鏡に映った私もあの幼さが少しなくなったように思えた。
それが妙にぽっかり空いた空白の2年の大きさをまざまざと見せつけられたような気持ちになって何だか苦しかったのを今でも覚えている。

田舎へ帰ってくるように両親に説得されたがそれを拒否して軍人であることを選んだ私は、私の自室だと連れて来られたこの部屋が最初まるで他人の部屋のように思えたのだが、記憶を失う前から持っていた物があることに漸く本当にここが私の部屋なんだと確信した。
大丈夫、変わらないものはあるのだと見覚えのあるものに心の底から安堵する。

「ただいま。」

この言葉を違和感なく言えるようになったのはごく最近だ。
私は上着を脱ぐとクローゼットから私服を取り出した。
リヒトさんから夕食に誘われたのだ。
正直得意なタイプではないが、恋人らしい彼から誘われれば無下にもできまい。
それに彼は私の知らない私を知っている人物でもある。
積もる話もあるだろう。
軍服を脱ぐ前にポケットからどの部屋の鍵かわからないそれを机の上に置く。
恐らく合鍵なんだろう。でもこの鍵で誰の扉が開くのか、記憶のない私にはわからない。
いつかリヒトさんの部屋の扉で試してみようか。

軍服を脱いでいくと、首にかけたチェーンの先にある指輪が存在を主張するかのように揺れた。
それを手に取り、内側を覗き込む。

Now and Forever

『今も、そしてこれからも』そんな言葉が掘られている。
言葉の横の日付は私が記憶を失くす三か月前が記されていた。
これがただの指輪じゃないことくらいさすがにわかる。控えめだが宝石だってついているのだ。
それは身につけていても仕事に支障を来さない程度で、これなら資料を傷つけたりすることもない。
一緒に選んだのか、選んでくれたのかは覚えていないが、相手の思慮深さが伺えて指輪を眺めるのが好きだった。
日付的にリヒトさんがくれたんだろうが、さすがにまだつける気にはなれないためこのまま持っているつもりだ。
チェーンを通して首からかけているこれはお守りみたいなものだ。

記憶失くしたての頃はサイズの合っていないゆるんだ指輪だったが、今ではピッタリになった。
肌のハリは戻り、髪も艶やを増し、健康体である。
仕事に復帰してから私に恋人がいたのかと友人や家族、アオイさん達に聞いてまわったが、皆口を揃えてこう言うのだ。
『付き合ってる人がいるけど、今は彼が誰かは言えないの。でも時が来たらちゃんというからね。』って言っていたと。
隠すような仲だったのか。
最初こそ不倫という不道徳な二文字が脳裏に浮かんで青ざめたものだが、一週間が経っても、一ヵ月、半年が経っても誰も『恋人だと』名乗り出てこなかったため安心したものだ。
本当に不倫だったならこれで関係はもう終了だろうし、わざわざ跡を濁すこともない。
それにもしかしたら元彼からのものだったかもしれないし。と軽く思っていたのだがまさか一年経ってから『恋人』を名乗る人物が現れるなんて誰が想像しただろうか。
しかし一年の遠征に出かけていたのなら今まで名乗り出る人がいなかったことにも納得がいく。

しかしこれで新たな謎ができた。
不倫でもないのに相手の名前を言わなかったのはどうしてだろうか、と。
私は恋人ができたことをわざわざ自分から言うことはないけど、人に聞かれたなら隠さずに答えるタイプだ。
少なくとも記憶を消える前から。そして消えてしまった今も。
2年もの間で何があったんだろうか。

その謎を問えば、リヒトさんは「君が照れくさくて恥ずかしいから黙っていたい。って言ったんだよ。」と言われたが、腑に落ちない。
しかし今は彼を信じるしかないだろう。
だって他に私の恋人を知っている人がいないんだから。

「わっ、もうこんな時間!」

リヒトさんとの約束の時間が差し迫っていた。
指輪を揺らしながら私服に着替え、化粧を直してから部屋を飛び出す。
これは走らなければ間に合わない。
軍人である私も他の軍人同様要塞内に住んでいるため、すれ違うのは軍人ばかり。
そんな中、角を曲がってこちらに向かって参謀長官が歩いてきた。
さすがに走る訳にはいかないため、スピードを緩め、すれ違い様に立ち止まって敬礼する。
こちらに視線一つ映すことなく参謀が通り過ぎたのを確認するなりまた駆け出した。見られてないかな、見られてないよね。と走りながら背後を振り向くと、何故かその場で足を止めた参謀長官がこちらを振り向いていた。
アメジスト色の瞳と視線が交じり、私も自然と足を止めていた。
走ったせいか体が熱を閉じ込めているように熱い。
その熱を吸ったかのように指輪までも熱を持ったような気がする。
何か私に用だろうか。いや、そんなはずはない。だって部署も違うどころか私の名前さえ知らないだろう。

「お疲れ様です…。」

再度敬礼すると、参謀は何事もなかったかのように背を向けるなり通路を歩いて行った。
今のはなんだったんだろう。通路を走ってたのバレたかな。やばいやばい。
私は走るのを止めて競歩で通路を駆け抜けた。


***


「えぇっ?!昨日リヒトとディナーに行ったの?っていうかあいつ遠征から帰ってきてるの?」

カウンターに座っていると、昨晩はどうだったんですか??と好奇心を微塵も隠しもしないで聞いてきた配架途中のイズミちゃんに「どうも何も過去の事聞いただけだよ。」と曖昧に返事をしていたところでアオイさんが会話に混じった。
今の一言から察するに先輩はリヒトさんに対してあまりいい感情は持ち合わせていないように思う。
イズミちゃんよりも遠慮なく根掘り葉掘り聞いてくるアオイさんは私が記憶を失くしてしまった2年間も知っているため、後輩の2人とは打って変わってリヒトさんのことを知っているようだった。

「アオイさんはリヒトさんのこと嫌いなんですか?」

「嫌いじゃないけれど…そうねぇ、苦手なタイプね。彼、すぐ周りが見えなくなるタイプだから。」

あぁ何となくわかる気がする。
昨日の食事の間もそんな雰囲気だった。
私とリヒトさんの出会いを聞いたら丁寧に教えてくれるのは助かるけれど、どうにも尾ひれはひれがついているようでならなかった。
一言で言うならば大げさなのだ。内容も話し方も。

「そうそう名前ちゃん。これ、借りてた小説。面白かったわ。」

「あ!それ!最近好きになった作家さんのー!」

先週アオイさんに貸した本が手元に返ってくるなりイズミちゃんがカウンターに身を乗り出すように食いついた。
さすが恋愛小説に目がない子だ。というより恋愛小説しか読まないみたいだが。

「この先生の恋愛模様いいよね。私も好きだよ。部屋に処女作品から全部持ってるし、良かったら貸そうか?」

「いいんですか?!ここ小説置いてないから困ってたんです!」

「そりゃ歴史資料館だからね。」

アオイさんの鋭い指摘に吹き出すように笑った。本に囲まれているとはいえ、ここにあるのは歴史的資料ばかりだ。
リヒトさんの話しから一転、好きな作家さんの話しで盛り上がり始めた私たちは利用客が来るまでそのおしゃべりが止まることはなかった。

その夜、部屋に帰るなりアオイさんに返してもらった小説を本棚に戻し、今度はイズミちゃんに貸す本を探し始めるが何故かその目当ての本は本棚に並んでいなかった。
どこかに置き忘れるとも思えない。何よりあの『彩雲』という本は私の愛読書だ。
夢を追い夢に生き、人々に助けられ人々を助け、そして愛し合い、短い生涯ながらも彩雲の如く生き抜いく少女を描いたもので、私が本好きになった切欠でもあるわけで。
誰かに貸した覚えもない…ということは、記憶のない2年間の間に誰かに貸したということになる。

仕方ない、イズミちゃんには2作品目の本から貸すことにしよう。
本棚から本来なら『彩雲』が隣に並んでいたであろうその本を手に取る。
記憶を失くしてから始めて手に取ったせいか、妙に懐かしくてそのままソファに移動する。
私の悪い癖だ。このまま1ページだけでも読んでしまえば嵌って睡眠時間を削ってしまうことになるだろう。
まだ夕食も、お風呂にだって入っていないのに。
いけないと分かっていても、ソファに腰を下ろしてその重厚感溢れる表紙を捲った。
お風呂は後で入ればいいし、ご飯は一食抜いたくらい平気だ。と思い始めたその時、表紙と見返しの間からひらりと一枚の写真が膝へと落ちてきた。

「え、何これ…」

そこに写っていたのは歴史資料館利用者であり、この帝国の参謀であるアヤナミ様だった。
それだけでも十分驚くというのに、参謀は白いシーツの上気持ちよさそうに眠っているではないか。
隠し撮りにしては犯罪レベルである。

「私もしかして……アヤナミ参謀の、」

隠れファンだったんだろうか。
あの若さで参謀だし、見目麗しいご尊顔とくれば放っておかれないだろう。
しかし私がこんな写真を隠し持っているとは。2年という月日は大変大きいようで。

「それにしても参謀ったら寝顔可愛いなぁ…。」

本人には決して言えないけれど。
思わぬ彼の一面に笑みを溢しつつ何となく裏返して見ると、そこには『You are my everything』の文字。
見間違えるはずもなく私の字だ。

「あなたは私のすべてです…って、」

一体どれほど崇拝してたんだ、私。

- 3 -

back next
index
ALICE+