04
『恋に落ちると眠れなくなるでしょう。
だってようやく現実が夢より素敵になったんだから。』
ドクター・スースー
昨日の頬の熱はすぐに引いたものの、それでも借りた黒い傘を見るだけで頬が緩んでしまうのはやっぱりそういうことなんだろうか。
しかしリヒトさんへの罪悪感を感じているのも事実だった。
記憶のない私がリヒトさんのどこを好きになり、ずっと付き合っていたのかはわからないが、もし私がリヒトさんの立場なら、記憶を失くした恋人が別の人に気持ちを寄せるなんてあまりにも非情な結末である。
だけどあのサボり魔少佐が言うことだって正しい。
個人用のロッカーである内側の扉に立てかけている黒い傘を眺めながら、頭を抱えたくなった。
「名前先輩〜。ヘルプミーです〜!」
カウンター業務についていたはずのイズミちゃんがロッカールームに入って来たと思えば、私を見つけるなり泣きついてきた。
なんだなんだ、悪質な利用者でも来たのかと耳を傾ける。
「今、参謀が資料を返却しに来たんですけど怖かったんですよー!貸出の時は先輩が担当してください〜。」
「…あ、うん。」
イズミちゃんは余程怖かったのか、「絶対ですよ!早く来てくださいね!」と念を押してロッカールームを出て行った。
その後を追うために開きっぱなしのロッカーから傘を手に取る。
丁度傘を返すことができるいいタイミングだ。
だが、これを返したら話しかけるきっかけは無くなってしまうのは何だか勿体ない気がした。
だからといって借りっぱなしにするわけにもいかない。
傘を持ち、ロッカールームを出て開架のどこかにいるであろう参謀を探し始めればすぐに彼は見つかった。
次の資料を選んでいるのか、背表紙を目で追っているその横顔にまた頬が熱くなる。
参謀は人を惹きつける特殊なオーラでもあるんだろうか。少し離れたところで彼から目が離せないでいると、さすがに私の存在に気付いた参謀がこちらを向いた。
「そんなところで何をしている。」
シンと静かな館内で少し声のボリュームは落とされているのによく耳に馴染む。
参謀に歩み寄り、持っている傘を差しだす。
「あの、先日は傘ありがとうございました。おかげさまで滑って転ばずに済みました。」
「それは何よりだな。」
傘を受け取る参謀の表情はやはり柔らかい。
いつもと何ら変わらないように一見見えるものの、それは勘違いではないだろう。
「お礼にこの後お茶でも飲みに行きませんか?」
イズミちゃんが聞いたら「信じられません先輩!あの参謀をお茶に誘うなんて!!怖いもの知らずですか?!命は大切にしましょうよ!!」と詰め寄られそうなことを言えば、参謀は一瞬だけ驚いたようにその瞳を開いたけれどすぐにいつもの表情に戻った。
「すまないがこの後は会議が入っているのでな。」
「そうですか…。」
結構勇気を振り絞って言ったのだがタイミングには恵まれなかったようだ。
大人しく配架でもしてよう。
わかりました、お仕事がんばって下さい。と会話を終わらせようとした私に今度は参謀が口を開く。
「今度は私から誘わせてもらおう。」
「へ?あ、は、はい!」
咄嗟に返事をしたせいで館内に私の声が響いた。
すぐに委縮して肩を竦めると、参謀は小さく笑みを浮かべていた。
***
「なぁに、やけに機嫌がいいじゃない。」
配架中の私を見たアオイさんがにんまりと笑みを浮かべていた。
どうやら配架してほしい資料を追加しに来たようで、カートの上に数冊の本が乗せられる。
一体どこから見られていたのか、緩んでいた頬を引き締めた。
「なんでもないですよ。」
「なんでもないのにニヤニヤしてるなんて怪しい子。ほら、正直に言ってごらん?」
好奇心旺盛なアオイさんをあしらうのにはとても骨が折れる。
言わなければ配架中ずっとついてくる気だ。
「なんでもないんですってば。」
「当ててあげようか?病名恋煩い。」
なんですかそれ、止めてくださいよ。とジト目を向けるとにっこり微笑み返された。
いつになってもアオイさんには勝てない。
「その感じじゃ相手はリヒトじゃなさそうねぇ。一体どこの誰かしら?」
「それ以上はお節介ですよ。」
「お節介で結構。」
肩に腕を回してくるアオイさんは井戸端会議のおばちゃん並みに鋭くしつこい。
それに隠すほどの事でもないため「参謀ですよ。」と小声で言えば、先輩は楽しげに両目を細めた。
もういいですか?配架中なんで。と腕を振り解いていると肘が特設コーナーの本にぶつかり、その拍子に資料が落ちてしまった。
まずい、このコーナーの本は貴重な歴史の本が多いのに。と若干青ざめて拾い上げる。
折れ曲がっていないか確認するが、傷一つついていないことに胸を撫で下ろした。
念のためパラリとページを捲り確認していくと最後のページに『第二版』と書いてある文字を見て閉じるのを止める。
おかしい。確かこの本初版だったはず。
「初版じゃない…。アオイさん、この本前は初版でしたよね?」
「あーそれね、私がコーヒー溢しちゃって買い換えたのよ。」
「そう…なんですね。」
「うん。」
アオイさんはこの資料に興味がないように言うが、一瞬だけ動揺見えた。
利用客はこの本を自由に閲覧することはできるが貸し出しを禁止されているほどの資料で、中には有名な歴史学者の帝国の繁栄が記されている。
そんな本を、よりにも依ってアオイさんが汚すだなんて考えられない。
カウンターでもどこでも館内は飲食の持ち込みは禁止されていてアオイさんはそれを破るような人ではないのだ。彼女はこの館内の誰よりも本を愛している。
何か隠したいことでもあるんだろうか。知りたい、と思った瞬間、「こんなところに居たんだね。」とリヒトさんが本棚から顔を出した。
「じゃ、その本配架よろしくね。」
アオイさんは何事もなかったかのようにその場を去っていく。
リヒトさんに話しかけられ始めた私にはその背中を追うことはできなかった。
「探したんだよ。これからお茶でもどうかな?」
「まだ勤務中ですので…。」
「そうか…そうだね。相変わらず君は真面目だね。」
肩を竦めるリヒトさんは私の手の中にある本を覗き込んだ。
「それどうしたんだい?」
アオイさんが隠したがっていることをリヒトさんは知っているだろうか。
「この本、知ってます?」と問えば彼はジッと私の目を見つめた後首を傾げた。
「さぁ。覚えていないな。」
嘘だ。2人は何か隠している。
『帝国の栄華』と書かれた本の背表紙を見ながら妙な確信を持った。
そんな私からリヒトさんは本を取ると元に置いてあった場所に戻す。
あまりこの話題に触れてほしくないとばかりの行動だ。
「君は何か思い出したのかい?」
「…いえ。何も。」
「大丈夫、無理して思い出さなくてもいいんだよ。君は君だから。」
優しい言葉だけど、何だか思い出して欲しくないようにも感じて素直に受け止められない。
ありがとうございます、とお礼を言えば彼の手が頭に乗せられ、顔が近づいてきたため顔を逸らして明らかな拒否を露わにした。
「私、その、…気持ちの整理が…。」
「急に驚かせてごめん。…運命は残酷だね。」
君の記憶がなくなるなんて。と困ったように眉を寄せた彼。
まるでB級恋愛映画のヒロインを演じさせられているような。あくまで主演は彼なのだ。
私は何もない左手の薬指を静かに撫でた。
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