05



『真面目に恋をする男は、
恋人の前では困惑したり拙劣であり、愛嬌もろくにないものである。』
イマヌエル・カント


ホーブルグ要塞の一角に佇むこの歴史資料館は一般の利用客だけではなく、軍人もよく足を伸ばす。
報告書の資料としてだったり、個人的な趣味であったり、ただ知識を求めてだったりと、借りに来る人は多種多様だ。
館内前の衛兵は今日も眠そうなほど、元々利用客の少ない館内は今日も平和である。
しかしそんな中、私がカウンターに座って痛んできた本の修繕をしていた時、顔色が悪いアオイさんが近づいてきた。

「ごめん、誰か資料の引き取りに行ってくれない?」

イズミちゃんが有給休暇のため、同じくカウンター業務についていた隣のシン君がすぐに「僕が行きます。」と挙手した。良くできた後輩だ。よく動く。

「顔色悪いですよ?大丈夫ですか?」

「あーうん、生理2日目ですっごい辛い。今日は閉架に籠ってのんびり仕事してるわ。」

シン君がいるのに『生理』とか言えちゃう辺りがアオイさんらしい。しかし異性がいるんだからその辺りはもう少し気を遣ってくれないだろうか。何故か私が居たたまれない。
シン君の方をチラリと横目で見れば、そんなアオイさんの性格に慣れっこのようでケロリとしていた。そういえばお姉さんと妹がいると聞いたことがあるし、その辺りは耐性があるのかもしれない。

「アヤナミ参謀のとこだから。シン、後よろしく。」

「え?!シン君、それ私が行ってもいいかな?!」

小さく挙手した私も良く動く。
快く譲ってくれたシン君にカウンター業務はお任せして、珍しく延滞している参謀の元へ足を運ぶ。
その足取りは軽い。寝不足が嘘のようだ。
昨夜例の『帝国の繁栄』と書かれたタイトルのあの本を夜通し読んでみたが、得られたものは何もなかった。
ただ煌びやかに帝国がどんなふうに地位と権力を高めていったのか、その繁栄の様子が記されていただけで特筆すべきものはなかったように思う。
次いで調べたのはあの本がこの歴史資料館に入荷された日だった。
それは私が偶然か記憶を失くしたすぐに納品されており、怪しさは十分。
しかし他にわかったことはなく謎は深まるばかりだ。

「お疲れ様です、歴史館の者ですがアヤナミ参謀はいらっしゃいますか?」

ブラックホークの執務室から声を掛けると、サボり魔少佐とそのベグライターが執務机に座っていた。
よく見れば少佐は縄でグルグルに縛られているではないか。
さては今日もサボりに行こうとした時にベグライターから椅子に括りつけられたんだろう。
いつもの事だと内心笑って、ふと今日初めてこの執務室に来たことに気が付いた。
既視感というものだろうか、それにしてもおかしい。椅子に縛り付けられた少佐なんて初めて見た光景のはずなのに。
ボーっとしていると、ベグライターが小首を傾げた。

「参謀なら奥の長官室にいらっしゃいますよ。……どうかされましたか?」

「…い、え……」

急に頭の中に靄がかかった様な。それでも『失礼します』と振り払って中に入れば少佐に手を振られたため小さく会釈をして返す。さすがに気軽に手を振り返すことができる地位の人ではない。

「失礼します。歴史館の者ですが、延滞されている資料を引き取りに来ました。」

ノックをして用事を告げるとすぐに中から「入れ」とお声が掛かった。
ドアノブを回して中に入ると中には若干疲れた表情の参謀の姿が。
机の上には大量の書類が置いてあり、珍しい延滞の理由はこれかとお疲れ様ですの意を込めて心の中で手を合わせた。

「すまないが借りている資料は自室にあってな。少しここで待っていてくれ。」

椅子から腰を上げた参謀に私は咄嗟に首を振った。
返却日から1週間が経過したら館員の誰かが引き取りに行くことになっているのだが、基本的に期日を守っている参謀が返しに来なかったのは仕事で忙しかったからなのだろう。
明日また伺う旨を伝えたところ、ならば今から自室まで引き取りについて来てもらえると助かる、と言われたため2人で長官室を出た。
すると執務室ではベグライターが少佐に向かって釘バットを振り上げており、ホーブルグ要塞は今日も平和だ、と本日2度目の喜びを噛みしめる。
普通ならば驚くであろう光景に、やはり見慣れた感じがするのはよくわからないけれど。

特に話すでもなく通路を歩いていているとすれ違う軍人は皆立ち止まり、参謀に敬礼をしているためやはり彼は偉い人なんだなぁと漠然と思った。

「期日を忘れてしまうとは、一日が経つのは恐ろしく早いな。」

「それほどお忙しいということですよ。お疲れ様です。」

「そちらの手間を増やしてしまったようだ。」

「いえ、これも私たちのお仕事ですから。」

他愛のないやり取りをしながら参謀の自室の前に着くと、私は部屋の前で待っているつもりだったのに参謀は扉を開けたままこちらを見下ろした。
これは入れということなんだろう。
参謀の自室に入るなんて貴重な体験は早々できない上に、彼が一体どんな部屋に住んでいるのかちょっぴりの好奇心を胸に秘めながら部屋に入った。
しかしこれ以上進むのも躊躇われたため、扉の前で立ち止まり中を不躾じゃない程度に見回してみる。しかし中はなんてことない、彼らしい部屋だった。シンプルといえば聞こえはいいが生活感がまるでない。
私のような下っ端軍人とは違って広い一人部屋なのに勿体ない。

「ソファにでも座っていてくれ。」

え、本を引き取りに来ただけなのに。と視線を向けると、オープンキッチンへと入っていった彼と目が合った。

「少し付き合え。」

「でも、お仕事大丈夫なんですか?」

私は平気だが、参謀の机の上にあったあの書類の山を知っているからこそ心配になる。

「コーヒー一杯飲む時間くらいはある。」

それなら私が淹れます。と申し出たが、参謀が変わらずソファに座るように促したためここは大人しくソファに腰を下ろした。
目の前の足の低いテーブルには引き取りに来た本が置かれてあり、パラリと中を覗いたが産業の資料のようで私の興味はあまりそそられなかったため早々に閉じ、次いですぐ側の本棚に目線を移した。
経済、戦術、民俗と幅広いジャンルではあるが本のタイトルだけで頭がパンクしそうなレベルの本だ。
しかしその一角。明らかにこの本棚で異色というべき大衆小説を見つけた。
『彩雲』。確かにそう書いてある本は私が失くしてしまったと思っているその本だ。
まさか参謀もこの本を読んだことがあるのか。だとしたら結構嬉しい。
ソファから腰を上げ、本棚からその本を抜き出すと何だか懐かしいその表紙を眺める。
私に小説の面白さを教えてくれた本だからこそ、感慨深く感じていると背後から「気に入ったのならばその本は差し上げよう。」と声が掛かり、私は心底驚きながら振り向いた。
そこにはテーブルにコーヒーを置くなりソファに腰を落ち着けている参謀がいた。
廊下を歩いている時とは違って少しリラックスしているような彼に今度は内心目を向いた。
下っ端の私にこんな姿を見せるような人ではないと思っていたのに。
自分にも人にも厳しく、厳かで冷徹、そんなイメージばかりが先立つ人のはず。
だからこそ、その姿に妙な親近感が沸いたとは口にも出せないが。

「いえ、そんな戴けません。」

「無理にとは言わないが。私はその手の本は読まないのでな、貰ってくれると助かる。」

読まないのに買ったのだろうか。
参謀がこの本を買うところなど想像できないが、きっと何か事情でもあるのかもしれない。
本好きだからという理由で女性から本をプレゼントされたとか。
女は共感したがる生き物だ。もしかしたら自分が好きな本を意中の相手に読んで欲しいと思ったのかもしれない。真実は定かではないが、特に気にすることもなくありがたく戴くことにする。

「ではお言葉に甘えさせていただきますね。私この本が昔から大好きで。でもいつの間にか本棚になかったから…いただけで嬉しいです。」

ありがとうございます。と微笑むと、彼は何故か少しの間私の顔をジッと見つめてから「そうか。」とコーヒーを嚥下した。
折角参謀が淹れてくれたコーヒーだ。こちらも有り難く頂戴しよう、とコーヒーに口を付けるとすでにミルクが入っており、そのミルクは多めで微糖。不思議なくらい私好みだった。

「ミルク多めの甘さ控えめって何でわかったんですか?」

余所を向いていた彼の瞳がゆっくりとこちらに向くと、気のせいだろうか、一瞬その瞳が揺れたように見えた。

「感だ。」

感って。それで納得するとでも思っているんだろうか。
それとも参謀にでもなれば相手のコーヒーの好みとか見ただけでわかっちゃうものなんだろうか。ってそんなわけ。しかし偶然にしては出来過ぎている。
まだ問いただしたかったのだが、彼が訝しむ私の視線を流すように目線を窓の外に向けたため、内心小首を傾げながらここは大人しくカップをソーサーに戻し、貰ったばかりの本をパラリと捲った。
この場で読むつもりではないが、その表紙や適当に捲るたびに見える所々の文章が懐かしい。
ページを乍読みしていると、漸く辿り着いた最後のページである見返しと呼ばれる文字が書かれていないそこに、『You are my everything』と言葉が書きこまれていた。
それは明らかに私の字で、数秒の間呼吸を忘れてしまうほど驚き、凝視する。
自分の字を見間違えるはずがない。
何故か震える手で奥付のページを捲ってみると、そこには第一版発行と記されており発行された年月は今より10年も前だ。
そんな昔に発売された本を発売された当初に買い、貰ったのかは定かではないが読みもしない本を自分の本棚に長年置くだろうか。
ましてや古本屋で買ったわけでもないだろう。
この本が発行されてから今までの、それもここ数年の間に彼の本棚にこの本を置いた、またはあげた人物がいる。
そしてそれは…

「私…?」

ポツリと呟いた言葉に参謀がまた視線を向けたことによって、動揺を悟られまいとへらりと笑いながら横髪を耳に掛けた。
すると今度は彼が訝しげに片眉をあげる。
上手く誤魔化したつもりだったのに全く効果はなかったようだが、私が残りのコーヒーに手を伸ばしたのを見て問いかけるのは止めたようだ。

もし今の推測が間違っていなければこの本は恐らく私の本だ。
参謀の寝顔写真の裏の言葉と同じ言葉が書かれている本。
もしかして私と参謀は知り合いだったんだろうか。
それも只ならぬ関係…。そんなまさか。
いやしかしよく考えてみれば怪しむべきところはいくつもある。
あの雨の日。傘を貸してくれた時、私が『運動神経は良いんですよ!』と言った時、確か参謀は『そうだったな』と言わなかったか。
そうだったな。とは、まるで私の事を知っているかのような言葉じゃないか。
今のコーヒーだってそうだ。

私と参謀が関係を持っていた?
仮に私からの一方的な想いだったとしてもだ。だって私にはリヒトさんだっているわけで。
二股?そんなことするわけないと思いたい。しかしよく考えてみればリヒトさんの言葉にはすべて確証が持てない。私が誰かと付き合っていたのは確かなようだが、リヒトさんだという証拠はない。むしろあの寝顔写真といいこの本といい、相手は参謀ではないかと疑うべきではないのか。
そうなればもしかしたらリヒトさんが今まで私に教えてくれたことは…。

「どうした。」

彼の声にハッとして見下ろしていた本から顔を上げた。
随分と思考の海を漂っていたようだ。

「顔色が悪いようだが。」

彼が真っ直ぐに見つめてくるその視線に今度は頬が熱くなる。
彼と、私が?
でもどうしてそれを隠すのか。

「青くなったり赤くなったり、忙しないやつだな。」

「あ、あの私、そろそろ戻ります。コーヒーご馳走様でした。」

参謀と付き合っていれば確かに隠すだろう。
敵も多いが味方も多く、それこそ隠れファンが居ることだって知っているわけだし、何より地位が違いすぎる。
しかしどうして参謀は私に何も言わないんだろうか。
最初に想像した通り彼にはお相手がいて私とは遊びだったんだろうか。
一先ず一人になってゆっくり考えたい。
本を二冊抱えて、私は逃げるように部屋を後にした。

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