06



『戸惑えば戸惑うほど、それは愛しているということなの。』
アリス・ウォーカー


例えば彼と私が関係を持っていたとして。
一体それはどんな関係だったのだろうか。
友人、恋人、浮気相手、考えれば考える程嫌な方向へと思考は進んでしまうが、ただの知人でなかったことはあの寝顔写真や本に記されていた言葉が明白にしてくれている。
日記でもつけておくべきだったと今更後悔しても遅い。
まさか自分が記憶を失くすことになるとは誰も思わないだろう。
私は本棚へと本を戻すなりため息を吐きだした。

今まで自分の空白の2年間が気にならなかったわけではない。
だが思い出せないものは仕方がないのだと諦める他なかっただけ。
しかしただ諦めるだけでいいのだろうか。
私がその2年の中で何を知り、誰と出会い、思い、語り合ったのか、私は何一つ思い出せないというのに。
背表紙の下の背ラベルに表記されている番号を見て、次の棚へとカートを押しながらもう一つため息を吐いた。
配架を行なうと探すことに集中できるため、考えたい時にはこの作業が一番落ち着くのだが一向に頭の中はごちゃごちゃと混線しているままだ。
しかしまた一冊の本を棚へ戻そうとした時、あるべきはずの本がそこにないことに気付くくらいにはまだ正気を保っているのかもしれない。

「やぁ!」

本棚から姿を現したリヒトが片手をあげながら笑顔で近寄って来た。
考え耽っていた私は若干驚きながらもその馴れ馴れしい挨拶に小さく「こんにちは」と返す。

「どうしたんだい?浮かない顔だね。」

まさか参謀のことを考えていましたなんて言えず、私は咄嗟に気になっていた一冊の本で誤魔化すことにした。
郷土コーナーよりもっと奥のこの一角は貸出不可の本が多い。
それは宗教関連であったり歴史関連であったりとジャンルは様々なのだが、いわば重要で貴重な資料が置いてある。
私達軍人が何故資料館で働いているのかと聞かれればこれが理由であろう。
私達はこれら重要書架を守っているといっても過言ではないのだ。
貴重な本を欲しがる人はたくさんいるし、それを盗んで売る人だっている。
厄介なのがこの本らを処分しようと目論んでいる人達。
宗教や歴史の文献は何かと敵が多い。
だからカウンターの前を通らなければこの一角には来れないし、カウンターから一望できる。
そんな棚に本がないとはこれ如何に。
館内であれば利用者が好きに手に取ることができるのだが、生憎とこの資料館は元々利用者数が少なく、今の夕方の時間であれば悲しいかな数字は0である。
とある本があるべき個所を見つめ、しばらく眺めていたと思えば彼はすぐに変わらない笑みを浮かべた。

「『帝国の発展と繁栄の歴史』なら確か少し前に撤去されたはずだよ。」

本に興味のない彼がまさか『ここにあったはずの貸出不可の本がない』と言った私の言葉からその本の題名を言い当てることができるなんて。
こんな偶然があるだろうか。
私が知らない何かがあるとどこかで確信した。
先日の『帝国の栄華』が第二版になっていたことを不自然に隠そうとしている節といい、参謀も、リヒトさんも、アオイさんも、誰かが故意的に私に何かを隠そうとしているのだと。

「撤去ってことは今どこに?」

「さぁ、その辺は詳しくないからね。それより今晩一緒に飲みに行かないかい?」

リヒトさんのお誘いを丁重にお断りした私は、その足で本について私より知っている人物に話しを聞くために踵を返し、閉架に着くとすぐに彼女は見つかった。
この資料館の館長でもあるアオイさんは右膝を摩りながら先日発売したばかりの小説を読んでおり、誰がどう見てもサボりである。

「足、大丈夫ですか?」

「ん?あぁ、大丈夫よ。」

声を掛けると、アオイさんは平気平気とあっけらかんと笑ったが、その実、雨の日や天気が悪い日は大体辛そうにしていることを私は知っている。
今日だってそうだ。外はどんよりとした曇り空で、夜には雨が降り出すという予報らしい。
そんなアオイさんは右膝を数年前の征伐の際に敵の銃弾によって撃ち抜かれて以来、歩くことはできても走ることが上手くできなくなってしまったため前線を退いたのだと聞いたことがある。
アオイさんが資料館に来る前は最前線で戦っていたというのだから驚きだ。
軍人として働けなくなってしまったアオイさんを館長がこの資料館に引き取ったというのは美徳だろう。
と、配属当日に先輩方から聞いた館長自慢を思い出していた私だったが、ふとそこで思考を一時的に止めた。
こんな記憶があるというのに先輩の顔は浮かばないし、何より私が配属された時には別の館長がいたはずだ。
なのにどうして今はいないのか。そして今まで何故疑問に思わなかったのか。
アオイさんは館長ではなかったのに。
アオイさんを除く先輩方は?館長は?今はどこに。

「アオイさんは……館長、ですよね?」

そんな質問に、アオイさんは片眉をあげるなり本を閉じて降伏とばかりに両手をあげた。

「勤務中に本読んでたのは謝るわ。」

謝るわといいながら謝っていないし謝る態度じゃないところがアオイさんだ。
そんなつもりでした質問ではなかったのだが、これはこれでいいだろう。どうせサボりだだ。
言い方は嫌味っぽくなってしまったが、何より本人は気にしてないように見える。

「それで?何か用事があったんじゃないの?」

「はい、あの『帝国の発展と繁栄の歴史』っていう本が見当たらなくって、閉架にあるって聞いたんですけど知ってますか?」

本の題名を言った瞬間、アオイさんの表情が一瞬だけ歪んだのを私は見逃さなかった。
何かある。そしてそれをアオイさんは全て知っているような気がする。

「あぁ、あの本ね。あれならあの金庫の中よ。」

アオイさんが指差した金庫は人が5人が入れるほどの大きさを持つ。
その中には歴史的に重要なものだったり、貴重な初版ものだったりする一方で表には出せない本が入っているのだが、この場合表とは世間を意味する。
なぜそんな金庫にあの本が入っているんだろうか。
疑問を浮かべたその瞳で金庫からアオイさんへと視線を移すなり彼女は肩を竦めてみせた。

「お偉いさんの考えることは私にはさっぱり。」

それは理由を知らないということだろうか。
更に質問しようとした私だったが、それより先にアオイさんが口を開いた。

「誰に聞いたの?」

気のせいか、鋭い口調のようにも聞こえた。

「リヒトさん、ですけど。」

「なぁに、あの男まだあんたの周りウロチョロしてるわけ?暇ねぇ。」

で?結局あんた達ってどんな関係なわけ?と話しを入れ替えられてしまい、それ以上は聞けず仕舞いだったが何だか一歩前に踏み出せたような気がしている。
何より、就業時間後に調べた軍のデータで館長の名前を入力した際『殉職』という情報が出たのは大きかった。
そしてアオイさんを除いた先輩方もまた同じように記されていたことも。
皆が殉職した日付は私が記憶を失くす3か月前。
その日に何かがあってることは明白だ。
過去の新聞にも表には何も公表されておらず、軍がもみ消していることも伺えた。
ならば資料館の過去の監視カメラの映像を見てみようとしたのだが、映像はその日付だけが抜け落ちていた。全く、誰かの故意を感じて仕方がない。
そしてその誰かは。
首から下げている指輪が熱を持ったように思えた。
まるでその存在を感じさせるかのように。


***


膝が痛むアオイさんに代わって本の引き取りのため本館へ足を運んでいた私は、偶然にも参謀が部下数名を連れて要塞を離れていることを聞いた。
ドクリと心臓が嫌な感じで大きく脈打つ。目的の部屋にたどり着く頃には口の中が乾ききっていた。
参謀の自室の前で立ち止まった私は、ずっと持っていた用途不明の鍵をポケットから取り出す。
差しこんでみるだけ。
差しこむことができなかったらそれだけだ。ではもし鍵が回ったら?
その先を想像するのが怖くて、考えるよりも行動に起こした。
私の体温で生ぬるい鍵を鍵穴に差し込むと、それは少しもつっかえることなく受け入れる。
ギュッと目を瞑って、静かにそのカギを回した。
ガチャリと開錠した音は私に真実を教えてくれたような気がして、込み上げる思いを深呼吸することでぐっと堪えた。
鍵を再度回して施錠すると鍵をポケットに入れて踵を返す。

「リヒトさん。」

資料館に戻るために、エントランス前の外階段を降りようとしたところでバッタリとリヒトさんに出くわすなり彼に自ら声を掛けた。
階段の一段一段は低いものの、それなりに長い階段を登り切った彼だがそこは軍人。
息は一つも乱れていないようだ。
夜から降り始めるというはずの雨は夕方になろうというこの時間から降り始めており、資料館を出る時にはまだ降っていなかったため、傘を持ってこなかったことが悔やまれた。

「リヒトさん。リヒトさんは私のどこを好きになってくださったんですか?」

雨が降り始めたことで周りの人は半ば足早に通り過ぎる中、私と彼は足を止めて向かい合っている。
こんな雨の中でする話しではないだろう。だがもう私の頭の中は整理しようとしてもできない情報ばかりで一刻も早く色んなことを知りたかったのだ。
私はこの足で参謀に会いに行こうと思っている。
どんな事実が待っているにしろ、もう『仕方がない』と諦めることはやめたのだ。

「中々甘えてはくれないけど、君の素直なところが好きだよ。気が利いていて、誰にでも優しい。急にどうしたんだい?とりあえず建物の中に、」

「私の薬指、何号か知ってますか?」

本館の中に入ろうと手を差し出した彼のその手を掴むことはなく、ただ真っ直ぐに彼を見つめる。

「それは買って欲しいと強請ってくれているのかな?教えてくれればいつだって用意するよ。」

「いいえ、必要ありません。」

キッパリと言い切った私に、彼は何かを悟ったのか手を下ろすなり眉を下げた。

「リヒトさん、私は貴方とお付き合いできません。ごめんなさい。」

「君と僕は付き合って、」

「付き合っていたというのも嘘ですよね?」

問いかけるように。でも確信めいていたその口調はしっかりと彼に届いたようだ。
リヒトさんは息を詰めると、静かに吐き出して肩を落とした。

「記憶が戻ったの?」

「それは残念ながら。でも、わかったんです。」

私が知り合った人から伝わる心の機微や、指輪や好きな本のことを忘れてしまっているのに何故か感じる感情。それらが私に教えてくれる。
初めて会ったんじゃない、初めてしゃべったんじゃない。
リヒトさんと付き合っていたのも違う。私が付き合っていたのはもっと別の人だ。
そして、その人を私はまた好きになってしまった。

「ごめんなさい、リヒトさん。」


***


外階段を降りて行く哀愁漂ったリヒトさんの背中を随分と眺めていたように思う。
彼の気持ちを受け止めてあげられなかったという後悔からではない。
私は彼のことを必要以上に苦しめてしまったのだと思うからだ。
記憶を失くしてしまったことで彼の気持ちを長く引き止めてしまった。
私の気持ちは最初から彼になかったというのに。

首から下げている指輪を服の中から取り出し、ギュッと握ると踵を返そうとした直後、ヒュウガ少佐のべグライダーが運転するホークザイルに乗って参謀と少佐の3人は雨が降りしきる中、階段下で足を地に付けた。
どこか視察でにも出かけていたんだろう、忙しい人達だ。
少佐はベグライターに怒られているようだが何だか楽しそうに笑っている。そんな不思議な光景を眺めていると、ふと参謀と目が合った。
私と目が合うよりも先に参謀がこちらを見ていたかのように吸い込まれるような感覚。
今から会いに行こうと思っていた人物とまさかここで会えるとは。
今日は良い日なのか、それとも。吉凶はわからなくても、私にとっては人生においてまた一つの岐路のように感じてならない。
帰って来たばかりならば今は話せなくても、後日でもいいから時間を取って貰えるようにお願いするために階段を降りようとしたその瞬間、服の外に出しっぱなしだった指輪が宙を舞った。
チェーンが切れたと気付いた時には指輪は手の届かない位置まで空を飛び出しており、それを掴むために手を伸ばした。
しかしその手は悲しくも空を切り、雨が叩きつけるばかりだ。
今日は良い日なのか、それとも。私は雨で濡れたその足場で足を滑らせ、階段を下るように落ちて行く指輪を追うように私の体も宙に浮く。
空がぐるりと回り、次いで襲ったのは痛いほどに打ち付ける衝撃だった。

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