07
『世界が笑えば、世界は君とともに笑う。君が泣けば、君は一人きりで泣くのだ。』
エラ・ウィーラー・ウィルコックス
つるりと足を滑らせた私は硬い何かに、しかしそれはコンクリートではないそれに受け止められた。
崩しきってしまっている態勢では私の全体重が圧し掛かっているはずなのに、その腕はぶれることなくしっかりと私を支えてくれており、額を打ち付けた胸板は硬くて痛かった。
しかしそれでもコンクリートに全身強打するより随分とマシだろう。そう思っていたのは顔を上げるまでだった。
見上げた先にはかの有名なアヤナミ参謀長官の姿。
一週間に一回ほど私が働く歴史資料館に足を運んでいることは知っていたが話したことはなく、ましてやこんな至近距離で触れるなんて。
「ありがとう、ございます…」
未だこの状況が信じられない。
なんといっても、受け止めてくれたのは泣く子も黙る参謀長官。
目の前で転ぶ女性がいても放っておきそうに見えたから意外だった。
意外なだけで怖くは無かったが、私を見下ろすライラック色をした瞳がミステリアスをいっそう引き立たせている。
トクリとどこかで大きく脈打ったように感じていると、彼は「気を付けろ。」と一言だけ言い残してこの場を去って行った。
***
「あの!この間は助けてくださってありがとうございました。」
もう私のことを忘れてしまっているかもしれない。そう思いながらも声を掛けずにいられなかった。
歴史資料館の一角で本を手に取って中を見ていた彼の瞳が私に向けられる。
まただ。トクリと脈打ち、胸の奥が甘く苦しい。
「えっと、この間外の通路で、」
「あれに懲りたら雨の中走るのは止めておくんだな。」
覚えててくれた。
内心狂喜乱舞していると、彼は手に持っていた本を棚へと戻し体ごとこちらへ向き直る。
「10年前の第4区で起こった『ノーマヴェチル掃討作戦』の資料を探している。当時のコマンド(部隊編成)について知りたいんだが、詳しく乗っている資料はあるか?」
ノーマヴェチルとはその当時世間を恐怖に陥れたカルト教団だ。
私が軍に所属する遥か昔の攻戦であったし、まだこの資料館に配属されてから数か月しか経っていなかったがレファレンスは得意だ。
どこにどんな資料があるのか、頭に叩き込んだ私の努力を奮うべき一人目が参謀とは光栄至極。
「はい、お持ちいたしますので少々お待ちください。」
「いや、いい。ついて行こう。本を持ったまま転ばれると罪悪感が沸きそうだ。」
「そんな頻繁に転びませんよ!」
***
唇を掠めたのは少し低い体温だった。
触れたのはほんの数秒だったのにその感触は今も触れているかのように鮮明に感じられる。
思わぬ彼の行動に、私は持っていた資料をバサリと落とした。
資料を探す手伝いをして欲しいとカウンターに居る私を呼んだと思ったら、本棚に紛れるようにして唇を攫われ、私を見つめるライラック色の瞳は寸分の揺るぎなく、なのに彼はズルかった。
好きの言葉も言わないで頬に添えられた手が耳を撫で、髪を梳く。
ミステリアスなその瞳の色が情欲で濃くなったような気がしてドギマギしてしまう。
このままこの人に溺れてしまいそうで、と心配になったがそれももう時すでに遅し。
もっと触れて欲しいと思ってしまった私はきっと。
彼の背中に手を回しながら瞳を閉じれば、もう一度その低い体温は私の体温を奪った。
***
カシャリ。
本来ならばそんな効果音が鳴っていただろうが、その音が鳴った時点で彼が目を覚ましてしまう。
だから私はアプリで音を消して目の前で眠る彼の寝顔を撮った。
随分と無防備な顔をして眠ってくれちゃって。携帯をヘッドボードへ戻しながら笑みを溢す。
起きてる時は歩く生物兵器みたいなオーラを出しているのに、私の隣で眠る彼はそんな大層な生き物ではないように思えてくる。
私も彼も、ただの温もりを分け与える生き物だ。
目を細めて彼にすり寄る。素肌に触れるシーツが気持ちいい。
ピトリと彼に触れれば服越しではない直に触れる体温がいつもより温かくて、つい二度寝してしまいそうになる。
彼のあどけない寝顔を再度見つめながら、さっき取ったばかりの寝顔を待ち受けなんかにしたらきっと携帯を叩き割られそうだなと想像したりして、こっそり一人で眺め愛でることに決めた。
後で現像してアヤに見つからないようなところに隠しておこう。
ふふふ…寝顔写真ゲーット!!とガッツポーズしていると、いつの間にか彼の瞳がこちらを見ていることに気が付いて、握っていた手で誤魔化すように横髪を耳に掛けながらヘラリと笑った。
「お、おはよう。」
「知っているか名前。お前がその締まりなく笑いながら横髪を耳に掛ける時は何かを誤魔化す時だ。」
うげ。なんだそれ。
寝起き特有の低い声色で伝えられた新事実にひくりと頬を引き攣らせれば、行き場を失くしていたその手を引っ張られて彼に組み敷かれた。
ツ、と首筋を撫でる彼の手がいやらしくて、昨晩の熱がまだ体に残っているかのように熱く火照りだした。
「さぁ、隠していることを話して貰おうか。」
悪役宛らのようなセリフを吐く彼に体を暴かれながらも、息絶え絶えにどうにか誤魔化すことに成功した。
***
「なんか喉乾いた…。コーヒー淹れよっか。」
昼下がり、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
起きるとすぐに体が水分を欲していた。
ソファに横たわっていた体を起こすと、アヤが掛けてくれたであろうブランケットが落ちてしまったのですぐに引き上げる。
「いい、私が淹れる。お前が淹れると泥水と変わりがなくなる。」
「そこまで言わなくていいでしょ。」
向かいのソファで持ち帰った仕事をしていたアヤが腰を上げてリビングに立つ。この光景は何度見ても慣れない。参謀がリビングに立っているなんて。今度エプロンでもプレゼントしてあげようか。
1人こっそり笑いながら、寝る前に読んでいたテーブルの上の本を手に取った。
「お前はそればかり読んで、よく飽きないものだな。」
そりゃぁ一度読めばすべて覚えているアヤにはわからないだろう。
私だって覚えていない訳ではないが、この本だけは特別だった。私に物語という世界をくれた本だから。
もう何年も読んでいるからか、角は擦れてしまっている。だけど買い換えようとは思ったことはない。
「好きだからいいの。もう台詞まで完璧に記憶してるんだから!読んであげようか?」
「結構だ。」
断ったアヤの方からコーヒーの香ばしい香りがしてきた。
パラパラと最後の見返しのページに、アヤが使用していたペンを借りて文字を書きいれてみる。
「どうせアヤの部屋に居る時間の方が多いんだし、ここにこの本置いてていい?っていうか置くね。」
真っ白のページに書いた言葉は照れくさすぎて言えるような言葉ではない。気まぐれにでも手に取って見るがいい。やっぱり気付かなくてもいい。けど気付いてほしい。女心は秋の空より複雑だ。
そんな葛藤なんて知らないアヤは、キッチンから戻ってくるなりテーブルの上にすでにミルクの入ったコーヒーカップを置いた。
飲めばきっと私好みで甘さ控えめのはずだ。
「やめろ。ヒュウガに見られでもしたら面倒なことに、」
「はい小難しい本達はちょっとずれてねー。」
「おい勝手に動かすな。」
全く、と文句を言いながら強制的に置こうとする私を本気で止める様子はない。
晴れてアヤの本棚の一員となった『彩雲』をソファに座って眺め見る。
こうして部屋を見ると、アヤの部屋に私の私物が増えたような気がした。
本だけじゃない、このマグカップも置きっぱなしの髪留めも、膝に掛かっているブランケットだってそうだ。
ふふふ、と笑みが零れる。
「アヤの淹れるコーヒーおいしいね。」
「お前のはコーヒーじゃない。コーヒー風味のミルクだ。」
***
「やけに浮かない顔をしているな。」
シャワーを浴びていた彼が髪を拭きながらソファに座る私に近づいてくる。
アヤが浴室に居る間に合鍵を使って勝手に入ったというのに彼に驚いた様子はない。
そこはさすが参謀とでもいうべきか。
たまには驚いた顔も見てみたいのに。
「2冊の資料が入荷してから、皆ちょっとピリピリしててね。怪しい利用者も多くなっちゃったし。」
目尻を下げて困ったように微笑めば、彼の手が私の頬に手を添えるなり目尻を親指で数回撫でる。
その手はすぐに離れてしまったが、お風呂上りのせいかいつもは低いその体温が今は温かかった。
「『帝国の栄華』と『帝国の発展と繁栄の歴史』か。」
「うん。」
理由はわかる。
反帝国主義がこの2冊の本が出てから表だって騒ぎ始めたのだ。特に過激派の行動には目に余るものがある。
栄華を極めた歴史の裏には血生臭く隠したい真実があり、それを知っている彼らにとっては憎悪の対象でしかないんだろう。
今の職業に就いて閉架にあり表には出ない貴重書を読んだ私は知っている。この国は弱者を踏み台にして繁栄した節がある。
そしてきっと彼らはその『踏み台』であったのだ。
靴を脱いでソファに両足を上げて膝に顔を埋める。
「資料館が要塞内にあると言っても何も起こらないとは言い切れん。自分の身は自分で守れ。」
「わかってる…。」
「私が行くまでな。」
次いで聞こえた言葉にパッと顔を上げたが、アヤはすでに私に背中を向けてしまっていた。
素直に守ってやるって言ってくれればいいのに。本当、不器用なひと。
***
彼が嵌めてくれたプラチナの冷たさが私の体温に馴染んでいく。
細身のリングには本を傷つけない程度に宝石が埋め込まれている。
結婚しようと言ってくれたことも嬉しかったのに、これなら仕事をしながらでもつけていられそうで彼の心遣いも嬉しかった。
しかし後々喧嘩しないためにも、ここでハッキリさせておかねばならなことが私にはあった。
「私、アヤに好きって言われたことない。」
「そうだったか?」
「しらばっくれるなんてダメ。ベッドの中で言う好きは無効だからね。」
キッパリと言い切ると、彼は降参とばかりに両手を上げた。
参謀である彼を降参させられるなんて世界中探しても私だけかもしれない。
こっそり自負しながら指輪を撫でている私の手に彼の手が重なった。次いで耳元に彼の唇が近づく。
そして、彼が紡いだ言葉によって私は涙を浮かべて微笑むことになる。
***
鼓膜が破れそうな爆発音。
壁や床のあちこちに刻まれるザイフォンの文字。
怒声と喚声。そして視界に色濃く残る赤。
閉架から出てくるなり聞こえた爆発音で嫌な予感はしていたがそれが的中するなんて。
帝国の繁栄を記す本を燃やすことで真実を世界に真実を訴えようとしている。
反帝国を掲げる過激派の中にもザイフォンを使う人たちがいるようで、先輩方が応戦するが戦地から遠ざかって鈍っていた感では太刀打ちできず。
「名前!お前は下がっていろ!」
「館長!私も軍人です、戦います!」
専らデスクワークの方が得意で実技は全く自信ないものの、1人逃げるなんてことできるわけがない。
敵の人数も何もわからないが、目的だけははっきりとしていた。
例の2冊の本を処分しに来たのだ。
戦おうとした私だったが、館長の手によってカウンターの下に潜り込まされた。
「お前に何かあったら参謀に顔向けできるか!」
アヤとの関係は誰にも言っていないのに館長は知っていたんだとそこで気付いた。
「そんなの関係ありません!行きます!」
敵の攻撃が止んだ一瞬の間にカウンターから飛び出て反帝国組織に立ち向かう。
しかし先輩方が敵に討たれ、館長も…。
その後すぐに閉架に居たアオイさんが騒ぎを駆け付けて応戦、最前線で戦っていたこともあり、おかげで反帝国組織は館内から一旦下がった。そのところを帝国軍が挟み撃ちして事態は一気に終幕を迎えることに。
しかし私の中ではそれは始まりに過ぎなかった。
生き残ったのはアオイさんを私だけ。
前線に出たことのない私は、目の前に広がる赤と近しい人達の死に心が耐え切れなかったのだ。
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