END
『あの人が私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。』
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
深いところにあった意識が浮上した。
長い夢を見ていたような気分だがあれは夢なんかじゃない。
だってあの時の光景は今も鮮明に思い出せる。何故忘れてしまっていたのかと思えるほどに。
事件が世間に公表されることはなく、要塞内で内密に処理。
それは表向きには帝国軍が残党である過激派の反乱を危惧しての行動のように見えたが、実際は片隅の歴史館とはいえホーブルグ要塞の中で起こった事件という失態を隠すためのもの。易々と敵に踏み込まれて襲撃されたなんて報道させたいはずもない。
この事件を知っている軍人には緘口令が敷かれるというほどの徹底ぶりだった。
私はあの事件の後、精神的なショックから食事が喉を通らなくなってしまい、折角貰った指輪が抜けてしまうようになった。
思い出せてしまえばなんてことない。私の中に蔓延っていた色んな疑問が全て繋がった。
重たい瞼を開けば左側にアヤが立っており、アオイさんが椅子に座ってこちらを心配そうに見つめていた。
「名前!良かった!体は平気?痛くない?」
椅子から腰を浮かすようにして身を乗り出してくるアオイさんの青かった表情に色味が戻った気がして、心配かけちゃったなと目尻を下げる。
聞かれてみれば確かに体中が痛い。
「ちょっと肩と足が痛いです…。」
「肩は打ち身、足は捻挫よ。もう心配かけて。近くにいた参謀が運んでくれたのよ。」
ごめんなさい、心配かけて。とアオイさんに謝ってから彼女の隣に立つ彼に目線を向けた。
時々会っていたはずなのに、とても久しぶりに会えたような感覚に心が震える。
鼻がツンとして薄らと涙が浮かんだ。
「ありがとう、アヤ。」
ただでさえ病室のシンとした空気が一際静かになるような、そして凍るのがわかった。
彼の瞳が動揺で揺れた。表情には出していないが私にはお見通しだ。
「貴女、記憶が…。」
アオイさんは口元を手で覆い、私とアヤを交互に見ると椅子から腰を上げ、「また明日お見舞いにくるわね。」と、1人静かに病室を後にした。
また明日ということは、私はこのまま入院なんだろうか。できれば帰りたい。
「明日は検査だ。どこまで記憶が戻っているのかわからないが、それも踏まえてだな。」
軍医でもないのに明日の予定をアヤが決めてしまった。となれば誰も覆しようもない予定になりそうだ。
「全部思い出したよ。アヤの事アヤって呼ぶのが良い証拠でしょ?」
そんなアヤが私の記憶を消した。
全てを思い出した今、そのこともハッキリと思い出せる。
アヤが淹れてくれたコーヒーを飲んでから記憶プツリとそこで途絶えているのだ。
布団から手を出せば、それに気付いた彼がそっと手を握ってくれた。
変わらない彼の低い体温が私の感情をゆるりと解いていく。泣きそうだ。
「私の記憶、消したのアヤだよね。」
「あぁ。」
軍の地下施設に私も知らないような機密施設があると黒い噂を聞いたことがあるし、恐らく薬で眠らされた私は記憶をそこで操作されたに違いない。
知らない人がこの事実だけを聞けばなんてひどい恋人なんだろうと言われるかもしれない。
アヤが記憶を消したのは事実だ。
だけど私は責める気にはなれなかった。むしろ私は彼に謝らなければならない。
「私、アヤのことたくさん傷つけた…。」
ごめんなさい。と言った途端、目尻から耐え切れなかった涙が零れ落ちた。
好きな人の記憶を消すなんて一体どんな気持ちだったのかなんて計り知れない。
十分な食事と睡眠がとれなくなってしまった私の生命の危機を感じて、アヤがとった苦肉の策は考えるだけで胸がはちきれそうだ。
そんな彼の気持ちを考えれば、あの事件から一歩踏み出せそうな気がしてくる。
何より記憶を消される前に比べたら体重も戻っている。
「弱くてごめんね…。」
前館長や先輩方を助ける力もなかった。そして死を受け止める心も持ち合わせていなかった。
アヤには何度謝っても気が済まない。私はアヤの優しさに救われたのだ。
「もっと強くなるから。体も心もちゃんと強くなるから。だからまだアヤのこと好きでいてもいい?」
アヤにこんな悲しい選択をさせてしまった私の涙を指で拭った彼は、愛してると小さく囁いてくれた。
それが答えだった。全ての答えになった。
涙は拭って貰ったばかりなのにとめどなく流れて、真っ白いシーツを濡らす。
好きとか愛してるとか全然言ってくれないのに、こんな時に言うなんてズルい。
滲む視界の中、落としたはずの指輪をアヤがポケットから取り出した。
どうやら拾ってくれていたらしい。失くしたらどうしようかと思っていた。
彼は黙って私の指にそれを嵌めてくれる。キラリと光る宝石が眩しい。
「指輪、またサイズが合うようになったな。」
「ちゃんと食べられるようになったから。ごめんなさいアヤ。貴方をたくさん傷つけて。愛してくれてありがとう。」
静かに微笑むと、彼は徐に立ち上がるなり覆いかぶさるように抱きしめてきた。
久しぶりの抱擁なのに、布団越しなのが悔やまれる。
「記憶もなかったというのに、こんなもののためにあまり無茶をするな。」
「こんなものじゃないよ。私にとってはアヤがくれた大切なものの一つなの。」
目尻にキスが落とされて、止まりかけていた涙を唇で奪われた。
こんなに穏やかな表情のアヤを見るのは随分と久しぶりだ。
そんな彼は私の耳に口元を寄せて静かに言葉を囁いた。その言葉に笑みを濃くした私は彼の首に痛い体を動かして腕を回す。
この人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう。
彼といると何かが零れる音が響くのだ。
「私、まだ泥水のコーヒーしか淹れられないよ?」
「それはまず最初に上達して貰わねばな。」
それは愛だった。
零れ出るほどの愛だった。
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