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ステージにあがり、マイクを手渡される。
ピアノを弾けばいいだけだと思っていた私は、それを受け取りながらも、頭の中は何を言おうかといっぱいいっぱいだった。
たくさんの人が私を見ている。
この感覚、ものすごく久しぶりだ。
ピアノの発表会を思い出す。
あの時はピアノの先生達がたくさんいて、賛否両論が飛び交ったっけ。
私はそれが嫌でたまらなかった。
ただ、純粋に聞いて欲しいだけなのに。
難しい技法を身につけ、あの極めて難しいとされるラ・カンパネラを弾きこなせるようになった。
これなら誰も文句を言わないだろうと。
だけど今度は世界中に人が私のピアノを賛否し、言い合うようになった。
だから一人でこっそり弾くようになったのだ、私は。
だけど、このステージなら?
私のピアノを非難する人はいない?
ただ純粋に耳を傾けてくれる?
「…は、はじめまして、名前と申します。この度はご結婚おめでとうございます。」
大丈夫、前みたいに楽しく弾けばいいんだ。
人を喜ばせたいと、そう思いながら弾けばいいんだ。
「今から弾く曲はどんな時でもその人を愛しなさい。そういう曲です。これからの人生を二人で歩んでいかれるお二人にはピッタリな曲かもしれません。聞いてください、『愛の夢』」
小さくお辞儀をしてマイクを司会の男性に渡してピアノの前に座る。
ピアノから一度目を離し、アヤナミさんの方を見るとしっかりと目が合った。
心臓が跳ねる。
今までになく緊張してしまって、息が詰まった。
あぁ、そういえばアヤナミさんも私の夢に出てきたなぁなんて思う。
小さく深呼吸をして、鍵盤に指を置く。
楽譜なんてもちろんない。
いや、ある。
私の頭の中に。
私は静寂の中、ピアノの音を奏で始めた。
リスト作曲。
『愛の夢』第3番、『おお、愛しうる限り愛せ』
この曲は元々、3曲からなる歌曲をリストがピアノ独奏用に編曲したもの。
詩の内容は、
自分を慕う人に悲しませることを口にしてしまったら、たとえ悪意があったわけでなくても、その人は去り、悲しむだろう。
そしていつかその人のお墓の前で悲しみ、「あの時、悪意はなかった」と涙を流そうとも、許しているとさえ語らない。
だからそうなる前に、どんな時も愛している限り愛しなさい。
そう、物語っている。
私は口にさえしていないけれど、けれどアヤナミさんが頭を撫でようとしてくれた時…避けてしまった。
彼は去りこそはしなかったけれど、内心では悲しんでいたのだろうか??
そう思うと切なくて、悲しくて、
まだ…まだ間に合うのなら、この曲の詩のように、どんな時でも愛したいと思った。
演奏が終わり鍵盤から手を浮かせて膝に置くと、拍手と笑顔が私を包んだ。
それが嬉しくて、小さくはにかみながら立ち上がり頭を下げる。
そうしていると、またもやマイクが差し出された。
「いや〜とてもお上手でした。どんな時でもその人を愛しなさい、とはロマンチックな言葉ですね。名前様はそいういうお相手はいるのですか??」
…この人はヒュウガさんに買収でもされているのだろうか。
結婚のお祝いに弾いたというのに、私の恋愛話など…。
悪いなぁと思いながら花嫁さんを見ると、ニコニコと期待の眼差しで見ているではないか。
…もしや、会場全体がヒュウガに買収…
いや、さすがにそれはないだろうけれど、疑いたくもなるというものだ。
「付き合ってはいなくても、好きな方とか…。」
好きな、人……。
「……はい、まぁ…います。」
極力アヤナミさんに目線をやらないように小さく俯いてそう言うと、会場が歓喜に包まれた。
もう、皆さん酔っていらっしゃるようで。
「ではその方はこの場にいらっしゃっているんですか?」
私は小さく頷いた。
「ずばり、その方とは??」
あぁ、買収されてるな、と確信した。
たまには勇気を振り絞って、ヘタレ根性を踏みにじるのもいいかもしれない。
怖いけど。
とっても怖いけど。
私は震える声で小さく、
だけどもしっかりとその名前を紡いだ。
「だってさ、アヤたん♪」
すでにため息しか出ない。
「悪い虫がくっつかないようにするチャンスだよ☆」
馬鹿ヒュウガの足を踏んづけて壇上の前まで行くと、散々しゃべらされた名前がステージから下りて来た。
顔を真っ赤にさせて俯いているその様は素直に可愛らしい。
パーティーの醍醐味であるワルツが始まっているにも関わらず瑚夜の回りには感動したとばかりに人が集まっている。
この喧騒の中で、名前は近づいてきている私に気付くと、一歩後ずさりそのまま脱兎の如く逃げ出した。
「逃げられてやーんの♪」
背後で笑うヒュウガの足をもう一度踏んづけて、小さなその背中を追った。
私の心臓はのみの心臓です。
ヘタレです。
ヘタレ根性に磨きがかかってるんです。
笑ってください。
もういっその事笑ってください。
私はすでに先程の自分の発言に対して、電気もつけていない寝室で後悔していた。
ピアノを弾いたことで感情が昂ぶったといえば聞こえはいいが、つまるところ乗せられたのだ。
あの司会者に。
そしてヒュウガさんに。
床に座り込み、ベッドに顔を押し付けてウジウジしていると、寝室の扉が開かれた。
この部屋に勝手に入る人間なんて限られている。
私かヒュウガさんか、この部屋の主であるアヤナミさんか。
そして恐らく後者であることもわかっていた。
「お前は本当に臆病のくせに無駄に行動力があるな。」
「無駄にとか言わないでください…。」
ものすごくものすごく恥ずかしいんですから。
「私はお前と一緒にパーティーに参加した覚えはないが?」
「こんな時にも意地悪言わないで欲しいです。」
だって未だに私はベッドから顔を上げられない状態なのだ。
二人の部屋には静かにしていれば微かにワルツが聞こえる。
「いつまでも床に座っているな。」
せめて椅子に座れというアヤナミさんに、私は首を横に振った。
「腰、抜けて…」
気が抜けたのとほぼ同時に腰が抜けてしまって立ち上がれないのだ。
アヤナミさんは小さくため息を吐いた。
それからアヤナミさんが何も言わないことを不思議に思った私が、恐る恐る顔を上げると手が差し伸べられていた。
「とことんへタレだな、お前は。」
だが…、アヤナミさんはそう言葉を続ける。
「臆病なお前にしてはよく頑張った方だと思うが?」
「……多分、一生分の勇気を使い果たしたような…気がします…。」
私はそういいながらアヤナミさんの手に自分の手を重ねた。
しっかりと掴まれ、グイッと引き起こされる。
その反動でアヤナミさんの腕の中に飛び込むような形になってしまったけれど、アヤナミさんは私の腰に手をやり、しっかりと受け止めた。
密着するその体勢も触れ合う肌も、全てが恥ずかしくて黙り込んでしまう。
「名前、ワルツは踊れるか?」
「え?…い、一応…。」
あまり得意ではないけれど、マナーの一環としてピアノの先生にちょこっとだけ教えてもらった覚えがある。
ピアノの先生はダンスも上手だったから。
「で、でも私ダンスの才能はなくって、」
「エスコートはしてやる。」
腰というより背中に手をまわされて、素肌にアヤナミさんの手が触れた。
ヒュウガさんってばどうしてこのドレスを選んでしまったんだろう…と無性に恥ずかしい。
手を重ね、微かに聞こえるワルツに合わせて体を動かす。
微かに震える足を叱咤して動かせば、たまにアヤナミさんの足を踏んづけた。
「なるほど、才能は皆無だな。」
踊りながらそんなことを言われる。
だから言ったじゃないですかと文句を言えば、喉の奥で笑われた。
部屋の明かりは月明かりだけで、今日は満月のようだった。
とても明るい。
だけど部屋の電気をつけられなくて本当に良かったと思う。
もし点けられていたらこんな赤い顔、見せられない。
そう思った瞬間、アヤナミさんの足と私の足が絡み、二人で縺れ込むようにしてベッドに倒れた。
びっくりして閉じていた瞳を開けると、天井越しにアヤナミさんの顔があった。
紫の双眸に見下ろされ、その長い指で顔にかかっている髪を耳にかけられる。
その一つ一つの動作が私を緊張させ、そして瞠目させた。
あまりにもその手つきは優しくて、初めて紫の双眸が怖くないと思えた。
「ずっと、触れてみたかった。」
掠れるほど甘く囁くような声。
撫でられる頬。
切実なその言葉に胸が締め付けられた。
「ア、ヤナミさ…、私…。あの時…嫌だったんじゃなくて…ただびっくりして…それで、」
「良い。今こうして触れているのだ、もう何も言うな。」
まるで幸せを[D:22169]みしめるかのように抱きしめられ、瞼、頬と口づけが落とされる。
「名前…。」
名前を呼ばれるだけで胸が切なく高鳴るのは何故だろうか。
その何とも説明しにくい感情のままにアヤナミさんの背中に手を回すと、今度はそっと唇に口づけが落とされた。
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