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朝、洗面所の鏡の前に立ってボタンを外し、そっと襟を広げた。

広げた肌の上には一つのキスマークが刻まれている。

遠征に来てから3日が経つ今日、時間の経過と共に色を薄くしていっているが、やはりまだ完全には消えてくれない。
それほど濃くつけられたわけじゃないにしろ、他の人…、というよりヒュウガにバレてしまわないかドキドキし続けているのは正直辛いものがある。

そっとその痕を指で撫でて、ふとこれをつけられた時のことを瞳を閉じながら思い出す。








『送ってくれてありがと、フラウ。』


教会からこの軍まで送ってくれたフラウにお礼を言ってホークザイルから降りれば、フラウは『どうしても行くのか?』と何度目かの質問を繰り返した。


『答えは変わらないよ。行く。そう決めたの。』


例え今持っている重たい荷物より、もっともっと重たいものを抱えることになったとしても、それでも私は行くと決めた。

たくさん迷って、たくさん考えた。
そして導き出した答えを今更どう捻じ曲げたらいいのか。

フラウの心配してくれている気持ちは嬉しいけれど、さぁ行こうか。
遠征へ。
ヒュウガの元へ。


『幼なじみっての、いるのか?』

『へ?あ、うん。いると思うよ。』


突如変わった質問に私が首を捻りながらも答えると、フラウは何を思ったのか私の腕を軽く引き、鎖骨の辺りに唇を這わせた。


『ひゃぁっ!!』


突如肌に触れた唇に驚いて一歩下がったが、そこにはもうすでに赤いキスマークが一つ出来上がっていた。


『ちょ、ちょっとちょっと!!今から行くっていうのに何してるのよ!』


襟を首筋の方へ伸ばすようにしながら赤面して文句を言えば、フラウは『好きだ』と呟いた。


『オレは名前に男のところには行って欲しくねぇ。』


いつもならここらへんで邪魔が入るというのに、今日に限って誰も入ってこない。
もう、誤魔化せないと心が告げている。


『わ、たし…は、』

『だけどな、今は行って来い。』


答えを必死に紡ぎだそうとしている私の頭にフラウの手が乗せられて、それから優しく撫でられる。


『今、それのせいで頭ン中ゴチャゴチャだろ?』


それ、と指差されたのはもちろん私の肌についている赤い痕で。
コクリと頷くと『思った通りだな』と笑うフラウ。


『オレのこと考えればいい。遠征行ってる間も、どんなに忙しくても鏡見れば思い出すだろ?だから、遠征行ってオレのことたっぷり考えてから帰って来い。んで帰ってきたら返事聞かせろよ。』

『…わかった。』








あの時のように頷いて、ゆっくり瞳を開けてもう一度鏡を見る。
確かにフラウの思惑通り、このキスマークを見れば思い出す。

あの時肌に触れたフラウの体温とか唇の柔らかさとか。
思い出せばやはりドキドキはする。

でも別の意味でもドキドキする。

ヒュウガにバレやしないだろうかと何度も何度も襟を正したりしてしまうし、見えていないかと鏡を何度も見てしまう。

朝の着替え中の今だってそうだ。

ヒュウガがまだベッドで眠っているからと、コソコソ隠れるようにして脱衣所に来て着替える。
前から脱衣所で着替えたりはしていたものの、何だか妙に緊張してしまって。
ヒュウガがいる部屋と脱衣所を隔てているのがドアだけということに、とてつもなく心もとなさを感じてしまう。

何だか悪いことをして、いつバレるかとビクビクしている子どものようだ。と床に視線を落としてため息を吐いた時だ。


「それ、誰につけられたか聞いてもいいかな??」


声が聞こえて視線を鏡に戻せば、ヒュウガが脱衣所の扉に凭れて、サングラスの下で細めている目をこちらに向けていた。

鏡越しに目があっただけだというのに、妙な威圧感を感じる。

この雰囲気を一掃させたくて、「お、おはよう」と引きつった笑みを浮かべて振り返る。


「ん♪おはよう♪」


にっこりと笑ったヒュウガ。

…逃げたい。
なのに出口は今ヒュウガが凭れているその扉だけ。

蛇に睨まれた蛙といった状態だ。
ぜひ今は蛙より貝になりたいが。


「ノックくらいして欲しいなーなんて…」

「何を今更。いつもノックなんてしないでしょ??」


確かに部屋に入るときもノックをしていた試しがない。


「顔洗いに来たらビックリした。名前ってば彼氏いたんだ?」

「…い、ないけど……」


別に嘘じゃない。
確かにこの痕をつけられているけど、恋人ではないし。

しかしこの痕をつけていながら『いない』なんて言葉は説得力が低い。

襟を首元に引っ張って隠せば、ヒュウガは面白くなさそうに「ふぅん…」と呟いた。


「恋人じゃない人とでもそういうことできるんだ?」


そういうこと、とは…きっとそういうことなのだろう。
キスマークを残されてるような事といえばあれしかない。
一体ヒュウガは何を勘違いしてるのか。


「…できるように、見えるの?」


少なからずとも、彼にそういう風に見られたことが悲しくて、悔しくて。

ヒュウガのことが昔からずっと好きで、でも忘れなきゃってフラウの事を好きになりかけて、そしたらまたヒュウガと再会して『あぁやっぱり好きだな』って実感させてくれたのは紛れもなくヒュウガだ。

その彼にそう見られたことはひどく辛い。


蛙は蛇を睨み返した。


「見えるって言ったら?」


挑発的なヒュウガの言葉と表情に奥歯を噛んでから唇を開く。


「一発殴って思い切り泣く。」

「あは☆いいね、それ♪」


面白くて、ムカつく。とヒュウガの唇が動いた。
声は微かにしか聞こえなかったけど、確かに。


「じゃぁ泣いてよ。いいよね女の涙って。男を惑わせる武器にもなって。」


カッと頭に血が上った。

泣いてはいけない。
この人の前で泣いてはいけない。


頭に血が上っているのに涙が浮かんできそうになって、必死に『零れるな涙』と心の中で何度も呟く。


服の裾をキツく握って飄々としている彼を睨み続けていれば、艦内放送が流れた。

それは戦場に着いたという知らせのものだった。

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