11
前にヒュウガとキスをしたベッドを、帰ってくるなりぼーっと見ている私はきっと傍から見たら鬱だと思われそうだ。
ふるふると頭を振って、鏡の前に立つと目はまだ赤かった。
水道の蛇口を捻って水を出して顔を洗う。
冷たい水がボーっとする脳みそまで染み込んでいく感覚がして、少しだけ目が覚めたようだった。
そこで小さくため息を吐く。
タオルで顔を拭って濡れたタオルを椅子の背もたれに掛けた、その時だ。
「おかえりなさい、名前。」
二回ほどノック音がしてエレーナが入ってきた。
「ただいま…。」
「……泣いてるの?」
私の様子が変なことに真っ先に気付いたエレーナが整った眉を顰めた。
「どうしたの?何かあったの??」
エレーナは知らない。
今まで私がどこにいたのか。
何故目が赤いのか。
私は知っているのに。
弟がこの世にいないということを。
寄り添ってくるエレーナに「何でもないよ」と誤魔化すけれど、エレーナを誤魔化すにはこの赤い目が邪魔した。
「目が赤いわ…。……。少し冷やしましょうね。」
エレーナは私をベッドの淵に座らせ、一度出て行くと今度は手に冷たく冷やしたタオルを持ってきてくれた。
「明日までに腫れが引くといいんだけれど…。」
タオルを目元に当ててくれるエレーナの指もこのタオルを持ってきてくれたからだろう、とても冷えていて、私はギュッとその手を握った。
目元に当てられていたタオルが膝の上に落ちるけれど、そんなことお構いなしだ。
「名前??」
「エレーナ、私のこと好き?」
一瞬目を大きく開けて驚いたエレーナだったけれど、迷うことなくすぐににっこりと微笑んで頷いた。
「えぇ。だって名前は私の天使だもの。」
「アリスと私、どっちが大切?」
この質問には少しくらい悩むと思っていた。
思っていたけれどエレーナは私の予測を裏切ってすぐに「貴女よ」と答えた。
「アリスは大切だけれど、アリスがなくても殺しはできるわ。でもね、名前…貴女は何者にも換えはきかないの。だから、だから、私の元から居なくならないでね。」
キュッと手を握り返され、エレーナの手の冷たさが私の手まで冷やした。
「うん。ずっと居るよ。」
弟が死んでいた。
それは変えられない事実だけど、優しくしてくれているエレーナがここにいることもまた変えられない事実。
私にはその二つの事実さえあればいいのだ。
それだけで、私の未来は決まるのだから。
「やっぱり。ここに居たんだねエレーナ。」
「ジュード。どうしたの?」
部屋に入ってきたのはジュード=マーカス。
私がここに監禁され始めた時にはすでにエレーナとは知り合いだったようで、研究者ではないけれど研究施設の古株だ。
つまり、エレーナと同じ首謀者というわけだ。
ジュードは31歳でかっこいい。
背は高いし、色素の薄い茶色の髪はサラサラと好青年タイプ。
きっとエレーナと並んで歩けば美男美女。
理想のカップルだ。
だけど2人はそういう仲ではないようだ。
いい仕事のパートナーというか…うん、仕事といっても殺人のだけれど。
こんな美男美女がアリスを使って人殺しをしようとはきっと誰も思うまい。
「軍にアリスを使うという話の件なんだが…。」
私がいるからか、言いよどんだジュードの言葉に私はピクリと反応した。
「いいよ、気にしないで話しても。」
「だが名前、君はこの手の話しは好きじゃないだろう?」
この人もエレーナと一緒。
私の事を気遣ってくれる。
「大丈夫。アリスを作ったのは私だよ?私だって知る権利くらいあるでしょ??」
「そりゃそうだけど…」
「あら、いいじゃない。名前も私達のすることに理解してくれるならそれに越したことはないわ。」
いやエレーナ、多分そんな日は一生来ないと思うよ。
「そうかい??」
ジュードは私に同意を求めてきたけれど、私は苦笑して肩を竦めただけだった。
「エレーナ、警備を手薄にするように手筈は整ったよ。」
「あら、思っていたよりも早かったのね。」
「あぁ、前々から軍に潜り込ませていたからね。」
「じゃぁ後はその日を待つだけね。」
この美男美女の頭の中を一度は覗いてみたいものだ。
綺麗な花には棘があるとはよく言ったものだなと感心する。
……って、ちょっと待って。
今の会話からすると、すでにいつどこでアリスを使うのか決まっているようではないか。
「あ、あの、それ決行するのっていつなの??」
「一週間後よ。」
にっこりとエレーナが答えた。
青くなる私の顔に2人は気付いていないようだ。
待って。待って。
そんなに早いなんてきいてない。
私の予定が狂うじゃないか。
「アリスをどこで使うの?」
「一週間後の今日、軍でパーティーが開かれるんだ。そこには軍のお偉いさん方もたくさん参加する予定でね。そこにアリスを投げ込むんだよ。夜だから太陽の光なんて気にせず投げ込める、打ってつけの機会だろう?」
ぜんっぜん打ってつけじゃないですけど。
あーもう。
こういう時エレーナたちが狂ってるって実感できる。
だから余計にこういう話は嫌いなんだ。
「軍に味方を送ってるって言ってたよね?」
「あぁ。」
「何人?どこの部署に?」
「名前、どうしたんだい?深く聞こうとするなんて珍しいじゃないか。」
エレーナは私の事を信じきっているけれど、今、一瞬だけジュードの瞳が細められた。
悟られるわけにはいかない。
「わ、私も実際にアリス使うところ見たいなって思って。」
「じゃぁ名前も軍に潜入してみるかい?」
「え?!?!」
「ダメよジュード!そんな危険なこと名前にはさせたくないわ!」
エレーナが激昂した。
こんなに怒るエレーナなんて初めて見たかもしれない。
「じょ、冗談だよエレーナ…なぁ、名前。」
「う、うん…。」
「…そ、う…よね。ごめんなさい、私ったら…。」
「いや、僕も冗談が過ぎたようだ。許してくれエレーナ。」
「ううん。いいの。名前には外になんて出て欲しくないのよ。外は危ないから…。」
「そんなに危なくなんて…、」
「危ないわ。いつ事故に会うかもわからないのよ…」
両親を事故で亡くしているエレーナの悲しい過去が一瞬垣間見えた気がした。
エレーナは過去や欲という見えない糸に絡め取られているのかもしれない。
私がエレーナとアリスという見えない糸に絡め取られているように。
「心配してくれてありがとエレーナ。軍には潜入しないから、当日はパーティー見に行ってもいい?エレーナも行くんでしょう?」
「えぇ…そうね、それくらいなら…。でも絶対私の元から離れないでちょうだいね。」
「うん。」
「名前が作ってくれた改良されたアリスを使う時がくるんだね。楽しみだよ。なぁ、エレーナ。」
「えぇ、とっても。」
「あ、はは…そう??」
私は全然楽しみでも待ち遠しくもないけれどなぁ…。
今すぐにでも抜け出して参謀長官に伝えたいけれど、この話を聞いてからすぐ脱走すると怪しまれそうだ。
じゃぁ私が今からできることは一つだ。
「あー…私、研究したい気分だから研究室行くね。太陽の光を浴びても不安定ならないアリス作らなきゃ。」
なんて嘘だけど。
「名前ったらいい子ね。」
その言葉に空笑いをした私は研究室に駆け込んだ。
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