14
目が覚めるとヒュウガはもういなかった。
朝日の中でまどろみながら、この布団にある温もりが私のものなのか、それともヒュウガのものなのかわからないけれど、後者だったらいいなと思った。
時計を見ると8時ジャストで、私はモゾリと体を起こす。
最近は30分しか寝ておらず、5時間もの睡眠なんて久しぶりに取ったからかどことなく体の節々が痛く重たい。
立ち上がって軽く背伸びをすると酸素が頭の中に入り、もやが晴れていくようだった。
それからはまた研究所に篭った。
アリスの改良といいながら別の研究。
昼も夕方も、そして現在の夜でさえも。
エレーナは一度顔を見せにきたけれど、ジュードに呼ばれてまたどこかへ行ってしまった。
やっぱり2人は仲がいい。
恋人同士になればいいのに。
そしたらお互い丸くなってこんなテロだなんて考えないようになるかもしれない…と都合よく考えてみた。
普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供を産んで家庭を育んで。
それでいいじゃないか。
エレーナにはそれが一番似合う。
陽だまりの中で洗濯物を干して、「この子ったらやんちゃで、目が離せないのよ。」と我が子を抱きながら笑うエレーナはミルクと石鹸の良い香りがするんだ、きっと。
そんな温かさと幸せがある家庭を私は見ながら「いいなぁ。私もエレーナのような家庭築きたいなぁ。」なんて言って。
そしたらきっとエレーナは「あら、名前は私より幸せになるわよ!素敵な旦那様見つけて幸せになるわ。絶対よ。」って微笑むんだ。
研究台にポトリ、と何かが落ちた。
それは一度だけでなく、それに続くようにしてポタポタと落ちてゆく。
私の頬を伝って。
「や…だな…。こんな未来、あるはずないって…わか、てるの、に…」
ずっとずっとこんな夢を見ていたい。
むしろ今のこの現状が夢であったらいいと思う。
こんな悪夢、早く覚めてしまえと。
この悪夢から覚めたらお父さんやお母さんは生きていて、エレーナが優しく微笑んでいて、弟も生きていて、私は「今からみんなで遊びに行こうよ!」なんて駄々捏ねていて。
あぁ、夢で良かったと笑いあえるんだ。
「エレーナが悪の組織のトップでね」「まぁ、なぁにそれ。」なんて笑いあうんだ。
笑いあうんだ…。
持っていたビーカーを置いた。
視界が揺らいで研究どころではない。
時計の時間はまだ午後11時。
最近の私からしたら眠る時間にしては早いけれど、私は研究室を出た。
またもや鼾をかきながら眠っている見張りの間を通って部屋に入る。
今日以上に彼らが眠っていてくれてよかったと思わなかった日はない。
扉を閉めると、ぐずぐずと鼻を啜って袖で涙を拭いた。
弟を殺されて憎くない訳じゃない。
それでもエレーナは私を大切に扱ってくれた。
いつでも優しくしてくれた。
何より温かさが伝わってきていた。
憎くないわけじゃないけど、完全には憎めないのだ。
「どうして泣いてるの?」
…またか。
ぐいっと涙を拭いて顔を上げると、窓の縁に足をかけて今にも部屋に入ってこようとしているヒュウガがいた。
昨日にしろ今日にしろ、もしかして彼は数日私が研究室に篭って研究していた間にもこの部屋で、夜が明けるまで待っていたりしたのだろうか。
「大丈夫です。ちょっと夢を見ていて。」
「悪夢?」
「いえ。どんな悪夢よりも悲しい夢です。」
この夢が叶う日は来ないのだから、きっと何より悲しい夢。
私の目尻に浮かんでいた涙を、ヒュウガは部屋に入ってくるなり人差し指の涙で拭った。
「目赤くなってる。ウサギさんみたいだね。」
「そんなに可愛い生き物じゃないです。」
「違うよ、あだ名たんの方が可愛いよ。」
今まで胸の中にあった悲しみが、今一気にヒュウガさんに染められた。
私の悲しみさえ吹き飛ばしてくれる人。
私は無性に恥ずかしくなって、軽く俯いた。
きっと赤いのは目だけでなく頬もだろう。
「そんなセリフ、言ってて、は、恥ずかしくないんですか…?」
「全然♪」
「…そうですか。」
どうやら恥ずかしいのは私ばかりのようだ。
「そ、そういえばここ5階なのによく登って来れましたね。」
話を逸らしたくて窓に淵に手を置いて下を覗く。
バネか何かあったら面白いのに、なんて思ったのだけれどやはりそこには何もなかった。
「降りる時とかどうしてるんですか?」
「普通に飛び降りてるだけだよ☆」
もはや人間業ではなさそうだ。
さすがブラックホークというべきか…それともさすがヒュウガというべきなのか…。
というか、昨日といい今日といい、この人は何をしにここまで来ているんだろう。
彼の行動は私には理解しがたいことが結構ある。
うむむ…と窓の下を覗き込みながら内心唸っていると、すぐ近くでヒュウガの声がした。
「オレ、忘れてるわけじゃないから。」
忘れているわけじゃない、というのは一体どういうことだろうか。
問うために振り向くと、思っていたよりもすぐ側にヒュウガは立っていて、私はつい一歩下がった。
しかし場所が悪い。
窓辺に立っていたためすぐ後ろに壁があり、行き場はすぐになくなった。
「え…っと…何をですか??」
急に話を変えられた上にこの距離。
戸惑わないはずがない。
「わからない?」
「は、はぁ…」
正直何のことだか。
少し悪いと思いながらも素直に頷くと、ヒュウガは私の腰に手を回して顔を近づけてきた。
咄嗟に顔を逸らして彼の胸板を押す。
「…」
思い出した。
どうして私はこの出来事を忘れていたんだろうか。
心のどこかで忘れようとしていたのかもしれない。
「ぁ……ご、ごめんなさい、私…」
「言っておくけど、別にキス拒まれても嫌いになんてならないよ。」
そうだ、私はこの人を傷つけたと思っていて…。
でも最近の忙しさに感けて忘れていたんだ。
思い出したことによりジクリと胸が痛んだ。
「だってあだ名たん、あの時オレより傷ついたような顔してた。あんな顔するってことはオレのこと嫌いじゃないでしょ?むしろ、好きだよね?」
それは確信めいた言葉だった。
ぎゅうっと瞳を閉じても彼の言葉は耳に届く。
いっその事耳を塞ぎたい気分だった。
「好きだよね。」
今度はもう疑問系ですらなくなっていた。
「…す、すごい自信ですね…。多分気のせいでは…」
「オレ、そこまで鈍感じゃないと思うし。あだ名たんの表情とか行動とか見てたら自惚れだってするよ。」
グッと抱かれている腰を引き寄せられると、ただでさえ近い距離が縮まって体が密着する。
必死に彼の胸板を押すけれどビクリとも動かない彼には何の効果もないようだ。
逃げられない、そう悟った。
今の彼に誤魔化しは通用しない。
でも、心のままに素直になることもできないのだ。
「…ヒュウガにはヒュウガの世界があって私には私の世界があるんです…」
ポツリ、ポツリと話し出せば、ヒュウガはちゃんと耳を傾けてくれる。
今以上踏み込んで来ないのは彼の優しさだろうか。
「私、ヒュウガとの世界は別々でいいんです。ただ、行き着く先が同じだと嬉しいなと思います。」
この答えは今の私の全てだ。
私はヒュウガに想いを告げるつもりはないし、ヒュウガの気持ちが私にあったとしても…、いや、恐らくあるのだろう。
こうしてヒュウガが私に言い寄ってくるということは、そういうことだ。
だけどその想いを受け取ることもできない。
今の私にはただ押し返すことしかできないのだ。
生きる世界は別々でもいい。
行き着く先が一緒なら。
このテロを防いだ未来なら。
ヒュウガは私の言葉の意味を汲み取ってくれたのか、珍しく難しい顔をしつつも彼はそれ以上何も言わなかった。
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