26
その人は、ふと意識が覚醒するかのようなスッキリとした目覚めだった。
深い闇の中から光へと一瞬にして連れ出されるような、そんな感覚。
朝日は寝不足の私には少し辛く、隣には未だスヤスヤと眠っているヒュウガの寝顔。
しばらくその寝顔をボーっと眺めている内に、次第に昨晩の出来事を思い出してきて、私は緩む口元と赤いであろう顔を片手で覆いながら体を起こした。
私の体からシーツが落ちると昨晩愛されたままの素肌が露になって、私はわたわたとシーツをたくし上げて胸元を隠した。
胸元にはたくさんの赤い痕。
立ち上がろうと足をシーツから出せば太ももや際どい部分にまで赤い痕が残されており、朝から気恥ずかしくてたまらなくなった。
一体どんな顔でヒュウガと顔を合わせたらいいのかわからなくて、一先ず朝食の準備でもしながら考えようとベッドの下に散らばっている服を拾い上げようとした、その時。
「っ、ひゃ、」
右腕を引っ張られて、ベッドへと逆戻りさせられてしまった。
驚いて身を引こうとする私の腰に腕を回してくるヒュウガは未だ目を閉じたままだ。
寝ぼけているのか、それとも寝たフリをしているのか。
どちらにせよ、とりあえず服を着たい。
「あ、あの、ヒュウガ、」
抵抗を見せると、腰を更に引き寄せられて胸元にヒュウガの顔が埋まる形になった。
朝から何を考えているんだと、顔も口も金魚のように赤く色づいてパクパクとするけれど、ヒュウガには見えない。
ピリッとした小さな痛みが胸元からした。
また一つ、赤い痕が残されたらしい。
「あ、朝から何してるんですかっ!」
「恥ずかしそうにしてるあだ名たんがあまりにも可愛くて。」
やはりヒュウガは寝たフリをしていたようで、返事を返すと顔を上げた。
「おはよ、あだ名たん♪」
朝だからだろうか、少しだけ掠れた声が昨晩の情事の時を思い出させて、私は恥ずかしくなって目を逸らした。
「おはよう、ございます。」
体が密着しているせいか素肌と素肌が触れ合っていて心地いい。
と思う反面、太ももの辺りに何かが当たっているのがとてつもなく気になる。
もぞり、もぞり、と下半身だけでも離れようとするが、ぴっとリとくっつけられる。
またもぞり、と離れたけれど、今度は足を絡められて、『何か』が当たっているという生半可な状況ではなくなった。
ヒュウガは気付いているのか、それとも気付いていないのか。
私は言った方がいいのか言わないほうがいいのか、どうしようとオロオロとしていると、ヒュウガが喉の奥で笑ったので、わざとふて腐れたように睨んだ。
「わざと、ですか。」
「ん♪」
一体私にどうしろというんだこの人は。
私はずれて頭の上にあった枕をヒュウガの顔に押し当てた。
「変態みたいです。」
しかしヒュウガはなんてことないような顔をして枕をまた元の位置に戻すと、私の額に口づけを落とした。
「あだ名たん相手になら変態でも何でもいいよ。」
そう言って唇にキスをしてきたヒュウガは昨晩とは違って何だか余裕があるようにさえ見えた。
「今日は何して過ごす?」
「えっと掃除して、洗濯して…あ、買い物にも行きたいですし、図書館に本を返しにも行きたいです。」
「体は平気?きつくない?」
「だ、大丈夫です。」
そう改めて聞かれるとやっぱり恥ずかしくて、今度は私がヒュウガの胸元に顔を埋めた。
「ヒュウガ、」
「ん?」
「私、初めて知りました。」
何を?と続きを催促するように髪を撫でるヒュウガの首筋にキスを落とすと、ヒュウガのその手はピタリと止まった。
「人って、人を愛おしく想いすぎて泣くことがあるんですね。」
失った時とか、久しぶりに再会した時とか、裏切られた時とか、泣ける時も事もたくさんあるけれど、愛おしく思いすぎて泣くことだってあるんだと、私は昨晩初めて知った。
「好きとか、愛してるとか、それだけじゃ伝えきれない思いが胸の中にいっぱい溢れてきて、でもそれをどう伝えたらいいのかわからなくって。一つになった時、そんな私の好きとか愛してるとか、もどかしい複雑な気持ちも全部伝わったらいいのにって、泣けてきたんです。あの時の感情が今もまだ心の中に残っていて、少し、くすぐったい。」
顔を上げて微笑むと、ヒュウガの口づけが唇に落ちてきた。
思ってもみなかった行動に目を丸くする私の舌を絡めとり、ヒュウガは次第に私の上へと体制を立て直して覆いかぶさった。
「じゃぁもう一回教えてくれる?繋がってまた伝えてよ、その可愛い感情。」
ヒュウガは昨晩の出来事から箍が外れたように、もう一度私を抱いた。
結局、私がベッドから出ることができたのは昼を過ぎた頃だった。
シャワーを浴びて、ヘトヘトになっている私のためにヒュウガが作った朝食兼昼食を食べて。
しばらくソファの上でダラダラとテレビ見たりお茶を飲んだり。
ヒュウガはさすがに立て続けに事に及んで私がクタクタなことに悪いと思っているのか、『辛くない?』『お茶いる?』とやけに気遣ってくれた。
気遣ってくれるのはとっても嬉しいけれど、どうせならそれをベッドの中で発揮してほしかった。
私はこっそり、朝までは痛くなかった腰を擦った。
「もう今日は買い物やめとこっか。」
「でも、図書館で借りてる本の返却日が今日までなので返さないといけないんです。どっちにしろ外にはでなきゃ。」
「オレが返してこよっか?」
「いえ、私も行きます。」
腰は痛いし体はだるいけれど、せっかくの休日なのだからずっと部屋の中にいるのも勿体無い。
私の意向を汲んでくれたのか、ヒュウガはクローゼットの中から上着を取り出してきてくた。
お礼をいいながらそれを羽織り、2人で部屋を出る。
軍を出ると、風は冷たいけれど日差しはとても温かかった。
エレーナが死んでしまった冬はもうすぐ色を変える。
草木は蕾をつけ、春はまだかと柔らかな日差しと気候を待ち望んでいる。
そういえばエレーナが生前『さくら』というものが綺麗なのだと言っていた。
春に花が咲くという『さくら』を私はまだ見た事がない。
「ヒュウガ、『さくら』って知ってますか?」
「あぁ、どこか遠くの異国の花だよね。確か軍の中庭にも2、3本植えてあるよ??」
「まだ咲かないでしょうか。」
「んーまだじゃないかな?あと1ヶ月近くは咲かないと思うよ?桜好きなの?」
「…はい。」
見た事もない花だけど。
どんな香りがして、どんな形をしていて、どんなふうに咲き誇っているのかさっぱり想像もつかないけれど。
エレーナが好きだった花。
それだけで今の私は好きになれると思う。
エレーナのように優しく淡い色で、控えめに杳々と香るような花だったらいいのに、と思う。
ヒュウガと[D:32363]いでいる手をギュッと握り返すと、ヒュウガは私の心境を知ってか知らずか、微笑んだくれたので私も微笑みを返した。
もう少しで図書館という曲がり角で、人が慌しく目的地である図書館から出てきた。
わぁわぁと騒いでいるだけではなさそうな状況に、私とヒュウガは顔を見合わせる。
図書館からは人がでてきて、何かから逃げているようだった。
私達も逃げた方がいいのだろうかと思うけれど、イマイチ状況が掴めないので動けずにいる。
「あの、すみません、図書館で何が、」
「殺人だ!あんたたちも逃げた方がいい!!急に人が具合が悪いといい始めたと思ったら訳のわからない言動を繰り返し始めて、持っていた護身用のナイフを振り回してやがるらしい!」
40代半ばぐらいの男性に声をかけると、そんな答えが返ってきた。
何故だろうか。
嫌な予感がする。
決して『あれ』だと決まっているわけではないのに、『あれ』と類似している症状のせいか全身が凍りついたように動けない。
血の一滴さえも凍ってしまったんじゃないかと思うのに、心臓はバクバクとうるさい。
救急車の音とかパトカーのサイレンの音が遠くでするのに、耳元で鳴らされているようにひどくうるさく感じる。
呆然としていると、握っている手が離された。
ハッとして顔を上げるとヒュウガが図書館に入っていこうとしていて、私はヒュウガの腕にしがみついた。
「ダメ!行かないで下さい!!」
「あだ名たん、今のが『アリス』だとは決まってないよ。」
「ダメです。ダメ…」
離さないとばかりにギュウッとしがみつく。
ヒュウガは仮にも軍人で、図書館の中に入りたそうにしているが構うものか。
何故かこの手を離してはいけないと思ったのだ。
そうこうしている内に警察が到着した。
一般人を非難させながら中へと入っていく警察に「待ってください!」と声をかけるが、逃げ惑う喧騒の中では届かない。
結局、この事件で死者24名、最初に突入した警察官も数名それに含まれたのだった。
後日、この事件の原因が『アリス』だと発表された。
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