この上ない日常



眉をしかめたり毒舌を吐くのは、照れくささの裏返しなのだと気付いたのはいつだったか。

無表情の中にも喜怒哀楽があって、それをもっと見たいと思ったのはいつだったか。

ニコリと微笑む時に上がる頬、怒る時は眉をしかめて、綺麗な瞳からは澄んだ涙を流し、毒舌を吐く時は瞳の奥にキラキラとしたものがたまに垣間見える。

キスをしただけで顔を真っ赤にし、抱きしめてやれば恥ずかしそうに俯く姿。

その髪も、瞳も、唇も、鼻も手も足も声も、愛おしくてたまらない。

名前の願いなら、大体のことは聞き入れてやりたいと思う。

何を望み、何を考えているのか聞かせて欲しい。

体を重ねてわかることもあれば、言わなければわからないことも確かにこの世界には存在していて。

わかりたい、わかろうとするのにも限界があって。

何が欲しいのか、何をして欲しいのか、どう感じてどう思ったのか、気持ちを聞かせて欲しい。


私達はお互いに不器用で、言葉が足りないのだろう。


もっと早く、そういってあげていたら、もっと穏便に事が済んでいたのだと、首筋にナイフの冷たさを感じながら思った。



「あだ名たん、アヤたんのこと裏切ったの?」

ヒュウガの声が参謀長官室にやけに響いた。

名前は私の背後からナイフを押し付けているため表情は見えないが、きっと無表情なのだろう。
それはきっと、作られた無表情なのだろうけれど。


我慢する必要はないのだ。

悲しい時は泣けばいいし、楽しい時は笑えばいい。
悲しいなら抱きしめてやるし、楽しいのなら一緒に楽しんでやる。

たまには箍を外してヒュウガのように馬鹿をしたりしてもいい。
その時は叱ってやる。

表情を殺す必要なんてこれっぽっちもないのだ。


「…」


名前の返答はない。


「そうだ、名前。そのままアヤナミを殺せ。」


静寂を破るようなメルモットの声。
恐怖に声が裏返っていたが、それはしっかりと聞こえた。

殺せと命じるメルモット。
命じられた名前。


今すぐに名前を振りほどき、地に伏せさせることは容易かった。
だが、それをしないのは名前から殺気がしないからだ。


「メルモット様。お忘れかもしれませんが、私は貴方を裏切っているんです。貴方の命には従いません。」

「では何故今アヤナミにナイフを向けているんだ。」

「…」


名前の口が堅く閉ざされた。

答えを求めるメルモット、答えを聞きたい私とヒュウガは耳を傾ける。

だが、やはりいつになっても名前から答えは出てこない。



「名前。」


答えを促すように名前を呼んでやる。


「名前、話してみろ。受け止めてやる。」


全て、受け止めてやるから。


「……」


名前のナイフを持つ手が震えている。

微かに、首筋から血が出てきた。
ピリッとする程度のかすり傷だが、名前はハッとしたようにナイフを首筋から離した。

動揺する名前の腕を取り、抱き寄せて髪を撫でてやる。
そうすると、名前は観念したように息を吐き出した。


「……私は小さい頃、メルモット様に拾われたんです。もう少しで死ぬところを拾って、面倒見てくださった。だから、そのご恩に報いたくて…。でもアヤナミ様も好きだから…。」

「…」

「アヤナミ様を傷つけたくないのです。でもメルモット様にも死んで欲しくないのです。私が昔命を助けてもらったように、今度は私が助けたい…。メルモット様は昔と変わってしまわれた。でも、生きていて欲しいんです…。」


名前は涙を一筋流し、瞳を閉じた。

それは涙を我慢しているようでもあり、どちらを取るか、まだ迷っているようでもあった。


「そういうことはもっと早く言え。名前が可愛く強請ればそれくらいの願いは叶えてやる。」

「……かわいく、ですか?」


涙を拭いながら名前が首を傾げる。


「そこ必要ですか?」

「それなりにな。ベッドの中でだったらより効果的だと思うが?」


耳にわざとらしく音を立ててキスを落としてやると、情事中の水音を連想させたのか、名前は顔を真っ赤にして俯いた。

そんな名前を他所に、メルモットを見下ろす。


「名前たっての望みだ、第3区に飛ばすだけにしておいてやる。」


所謂左遷というやつだ。


「ヒュウガ、連れて行け。」

「連れて来いって言ったり連れて行けって言ったり、オレ使いが荒いよアヤたん♪」


ヒュウガはそう言いながらも、メルモットを引きずりながら楽しそうに参謀長官室を出て行った。


「待て、お前は何処へ行く。」


そろりそろり、と一緒に出て行こうとする名前の襟を掴んで引き止める。


「その、血がでていらっしゃるので濡れた手拭を持ってこようと…」

「必要ない。」


ソファに座り、膝の上に向かい合うようにして名前に手を引き座らせる。


「舐め取ってくれ。」

「……頭に虫でも湧いていらっしゃるようですね。外科と精神科に通いましょうか。」

「まさか恋人にナイフを突きつけられるとは思わなかったな。」

「………どんなこと言われても舐めませんよ。」

「何だか痛くなってきたな。今すぐ名前に、」

「わかりましたよ、舐めればいいんでしょう、舐めれば。」


名前は至極嫌そうに眉を顰めて、私の首筋に舌を這わせ始めた。


生温かい舌がくすぐったい。


胸元に名前の白い手。
首筋にかかる熱い息、それと這っている舌だけで今すぐ抱きたい衝動に駆られる。


「先に言っておきますけど、変なことしたら刺します。」

「それは怖いな。」


鼻で笑ってやりながら、名前のポケットに手を入れてナイフを取り出した。


「私がそのナイフを持っていることに驚かれないんですね。」

「まぁな。」

「……まさか、献身的にこんなにも尽くしている恋人を疑って調べたんですか?」

「疑わせたのはお前だ。口が止まっているぞ。」

「もう血は滲んでません。」

「暗示の方は大丈夫なのか?」

「そこまで調べられたんですか??言っておきますが、私は一度も暗示に掛かった状態でアヤナミ様にお会いしたことはありませんよ。どうして私が暗殺者ではなくメイドなのか…それは知っていらっしゃいます?」

「いや。」

「私は暗殺者に向いていなかったんです。簡単に言ってしまえば、暗示に掛かりにくかったんですよ。稀にそういう人間がいるみたいで。」

「そうか。暗示が掛かっていないと聞いてホッとした。」

「でも、暗示にかかっている暗殺者がまだたくさんいます。その者達が術者によってメルモット様を助けるように術を掛け直してしまったら元も子もありません。」

「あぁ、わかっている。それについては明日その術者を殺しに行く。」

「暗殺者は殺さないで下さいね。彼らはただ操られているだけですから。」


一番厄介なのはメルモットではなく、術者だったというわけだ。

根こそぎ助かる手段を奪っておくことにしよう。
二度と名前が命を狙われないように。


「わかった。」

「あ。それより、アヤナミ様。私傷つきました。恋人を疑うなんて最低です。」


思い出したようにふて腐れる名前の頭を撫でてやる。


「調べたくて調べたわけではない。」

「それでも傷つきました。」


…どちらかというと、恋人にナイフを突きつけられた挙句裏切られていた私の方が傷ついたと思うのだが…。


「傷つけてすまなかった。」

「いえ。アヤナミ様は私を好いてくださっていたからそういう手段に出て傷つけたのでしょう?傷つくのが恋でございますから。でも私、ものすごく心に深い傷を負ってしまいました。」


言葉のわりにはその口角は両端ともバランスよくつり上がっている。


「どうしたら機嫌を直してくれる?」


髪を梳きながら苦笑する。

こんな姿、ヒュウガ達には見せられない。


「アヤナミ様。傷つくのが恋なら、癒すのは愛でございます。」


ただでさえつり上がっている口元が更につり上がった。


「なるほど。ならお前が二度と私を裏切らないと誓えば、こういうことはしないと私も誓ってやろう。誓えばたっぷり愛してやる。」

「いいですよ。絶対しません。だから今まで以上に愛してくださいね。私も心から愛しますから。」

「望むところだ。」

「…アヤナミ様、メルモット様を殺さないで下さって…ありがとうございました。」


そう言って、名前は小さな触れるだけの口づけを落とした。


「大好きです、アヤナミ様。」


初めて出会った頃には想像もつかなかった花のような笑顔を浮かべた名前に、今度はこちらからキスを送った。


愛して、愛し合って。
これからはこれが日常になるだろう。


日常の中にやってきた名前が持ってきたのは、この上ない日常。

最高の日常。
最上級の日常。


「愛してる、名前」


(それは、最愛の非日常)

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