彼が苦手な彼女の話
授業が終わり、退室しようとしたシェリルを引き止めたのはスネイプだった。
「Ms.ウィンターソン、少し残りたまえ」
「はい、教授」
シェリルはドラコ達に先に寮の談話室に行っているようにお願いした後、誰もいなくなった教室からスネイプの研究室へと移動した。
「ジル様。何故、そのようなお姿を?」
「教授、ジルって……」
「冗談は結構です」
確信を持った問いかけにシェリルは「(やっぱり誤魔化せないわよねー……)」と内心ため息をつきつつ答えた。
「はぁ……。何故って、まぁ、監視?」
ジルとシェリルは別人だと言い張りたかったが、それをさせてはくれないであろうスネイプの(鋭すぎる)眼差しにジルが折れて答えると。
「監視?それは一体誰を……、いえ、貴女がそんなことなさらずとも私が、」
「あら、ダメよ。貴方は優し過ぎるもの」
「私は別に、」
「いいわ。そういうことにしておいてあげる」
スネイプの言葉を遮り、ジルはその顔色の悪い頬へ小さな手を伸ばす。
「私は誰かを傷つけたりしようなんて思ってないのよ?」
「……ですが貴女は」
言外に“闇の帝王の姉だ”と紡ぎそうになった唇を噛み、スネイプは俯く。
背の高い彼は、俯いたところでその顔を隠せるわけでもなく、むしろ今は11歳となったジルからは丸見えだ。
「……まるで、迷子のような目ね」
ジルはパチンと指を鳴らす。
一拍の後、そこにいたのは11歳の可憐な少女ではなく20代半ばあたりの美しい女性の姿へと変わっていた。
ハニーブラウンの髪を横に流して三つ編みにしている彼女を見て息を飲む。
見慣れていたはずのその姿は、いつもよりずっと美しく、まるで今まで接していた彼女は闇の帝王より年上には見えないその美貌に。
何より、その透き通る紅に自分の全てが見透かされたような、そんな気がして―――。
「っ、」
「―――愛しい花への償い、かしら?」
“花”。その言葉が意味するのは。
思い浮かぶのは、赤い髪に可愛らしい笑顔の、百合の名を持つ彼女で。
そこで初めてスネイプの目に動揺が走った。
「何故って顔してる」
「…………」
「不思議でもなんでもないわ。ただ、知っているだけよ」
苦虫を噛み潰したような顔でスネイプはジルを見つめていた。
―――彼女は闇の陣営の中で最も信用してはならない、恐ろしい人間だ。このままでは……、けれど戦って勝てる相手などではない。どうすればいい?このままでは愛しい"花"の忘れ形見まで……!
「やめて。私は貴方と戦うつもりはないの」
「では何故」
「ここから先は秘密。貴方はもう少し、周りを見た方がいいわね?」
諭すような口調の言葉でも、スネイプに向けられたその瞳は僅かだが冷たい色を孕んでいた。
びくり、と肩を震わせた黒衣の男はイタズラが見つかった子供のようにバツが悪くなって目を伏せると、数瞬後ソファに座りこみ項垂れる。
彼女を信奉する死喰い人がその場にいれば不敬だと死の呪文でも飛んできそうな態度だが、スネイプはそんなことを取り繕う気力もなくなったようだ。
疲れ果てたような声色でスネイプはジルに問う。
「……ダンブルドアにはどうやって取り入ったんです?」
「あら。取り入った、だなんて人聞きの悪い」
「…………」
「不満そうね?時が来たら教えてあげるわ」
また自らに魔法をかけ仮の姿(と言っても子供)に戻ったジルはスネイプが手ずから淹れた紅茶に口をつける。
本来の立場で考えるならこんな風にのんびりとお茶をして言葉を交わせる間柄ではないのだが、それを可能にしたのは此処がホグワーツのスネイプの自室で、シェリルとスネイプが今だけは生徒と教師という関係だからだろう。
紅茶の香りを楽しむシェリル。容姿も相まって貴族令嬢にも見える。
仕草は大人そのもではあるのだが。
「美味しい。やっぱり紅茶は貴方が淹れたものじゃないと」
「左様で」
結局、スネイプは彼女の言葉を信じた。
何故なら彼女の前に嘘や偽りは無意味だし、自身も閉心術のかなりの使い手であると自負しているが、彼女は更にその上、別格だった。
彼女は闇の帝王、ヴォルデモート卿の実の姉だ。
それは揺るぎのない事実。
闇の帝王本人がその事実を認め、実力も然る事乍ら、それによって死喰い人からも崇拝されている。それはヴォルデモートが死んだと魔法界がわいたあの日から、ずっと変わらず。
……どうやって闇祓いや追求する魔法省の手から逃れたというのだろうか。
ヴォルデモート卿が失脚したと知った後ここぞとばかりに寝返った死喰い人の中には彼女の姿も名前も無かった。
彼女はいつもそうだった。
突然姿を消したと思えば、ある日いきなり目の前に現れる。
神出鬼没を地で行く性質だ。
全くもって厄介な女であることは間違いない。
当初考えていたことから逸れつつ、スネイプもまたシェリルの為に淹れた紅茶を一口飲んだ。
「性質が悪いって顔しているわね」
「……そんなことは」
「ふふ、隠しても分かるから気にしない方がいいわよ?それと、敬語はやめた方がいいわ。私、今は貴方の教え子だもの」
「はぁ……」
深い。それは深いため息をついて、スネイプはちらりとシェリルの顔をうかがう。
11歳には見えないその容貌。
抜ける様に白い肌やハニーブラウンの髪、それに彼女の持つ独特な雰囲気は、本来の姿と変わらず、むしろその11歳という(外見上の)年齢も相まって妖しく人を魅了する雰囲気が出ていた。
これでは間違いを犯す者も出そうなほど。
「(……いや、人を惹きつけるのは今に始まったことではないか)」
これで闇の帝王より年上だというのだから恐ろしい。
一体どうやっているのか。
疑問に思うがそれを質問するのは憚られる。なにより彼女は怒らせて良いいことのある相手ではない。
―――誰かが言っていた。
彼女の言葉は毒、その瞳は魔性、と。
初めて会った時こそ噂を鵜呑みにしていたが、今はそんなことを言われるような面影は一切見られない。
死喰い人として活動していたあの頃ですら、誰かを貶めることも無く、理不尽に傷つけることも無かったのだから。
今はそう、何処にでもいるちょっと力を持った普通の魔女。
ただその“ちょっと”が桁外れなことはスネイプも理解しているが。
「監視ならそのような姿をして入学する必要もなかったのでは?」
「確かめたい事があるのよ」
「それは、」
―――ハリー・ポッターの事ですか。
そう問おうとして、その先の事を考えた。もし、それに是と答えられたら守らねばならない。唯一愛した“花”の守ったものに命をかけると決めたのだから。
もし、彼女が否と答えたら?
ヴォルデモート卿の姉である彼女の関心は必ずあの子供に向く。いや、もうすでに向いている、はずだ。
けれど。
そこまで考えて、スネイプはふと思考をやめた。
彼女は誰にも本音を漏らさない。
彼女は誰にも自分を見せない。
それはヴォルデモート卿だけでなく死喰い人、そして彼女のまわりにいた人間の共通認識だった。
乙女の様な一面を見せれば、死喰い人に対し冷酷な顔を見せることも、時には子供の様に悪戯をして配下を困らせることもしばしばあった。
様々な一面を持ち、決して誰にも己の本音を、素を見せることのなかったジル・マールヴォロ・リドル。
―――スネイプは、そんな彼女の事が苦手だった。