ルーマニアでの秘め事
彼女の言葉は毒だ、と誰かが言った。
まるで氷が溶け出すように、ぽたりと落ちたインクが紙へじわじわと染み込むようにゆっくりと心を毒で満たしていく。
「大丈夫、貴方なら出来る。この私が言ってるんだもの。"出来なきゃおかしい"わ」
彼女の瞳は魔性だ、と誰かが言った。
真っ直ぐと相手の瞳を見つめる透き通った赤は闇の帝王を彷彿とさせ、逆らうことも、虚無にさせることも無くただ"その気にさせる"魔性の瞳だった。
「ほら、ね?貴方なら、大丈夫。さぁ、私の近くに来て?」
口角を吊り上げ、目を細めた彼女に恐る恐る近付いてきた男の額へそっと口付ける。
彼女の唇が額に触れた途端、男は自分の中に"何か"が入ってくる感覚がして不快感に顔を歪めて小さな呻き声を上げた。
だがそんな違和感も一瞬のことで、自分の体のどこにも異変は無く、疑問に思って彼女を見上げれば。
「"アレ"はグリンゴッツの713番金庫にあるの。取ってきてくれるよね?―――クィリナス」
念を押すように問いかけられる言葉と、軽やかに紡がれた自身の名に男は喜びを覚える。
彼クィリナス・クィレルは彼女に跪き、頭を下げた。
「仰せのままに。―――ジル様」
彼女の名前はジル・マールヴォロ・リドル。
魔法界を恐怖に陥れ、多くの人間を屠り、魔法界の歴史に名を残した闇の魔法使い、ヴォルデモート卿ーーー否、トム・マールヴォロ・リドルの実の姉だった。
「いい子ね」
美しい豊かなハニーブロンドを耳にかけて、ジルはクィレルに微笑みを向ける。
「私もそのうちホグワーツに向かうことになってるの。だから、クィリナス……私を、失望させないでね?」
赤い瞳はクィレルを射抜くように見据える。
それはまるで誘うように揺らめいていて、かと思えば突き刺すような鋭さを含んでいて。
「もちろんです。私は、ジル様に誠心誠意仕えます。貴女が望むならば火の中でも水の中でも……命さえ捧げます」
「…………ありがとう、クィリナス。貴方だけよ、私をそこまで慕ってくれているのは。でも、だからこそ命を捨てないで。私を想うのなら、生きてそばにいなさい」
「っ、勿体なきお言葉……、ありがとうございます」
彼女の言葉は毒だ、と誰かが言った。
相手が望むであろう言葉を、欲しいであろう言葉を吐き、全てを飲み込むように手招く。
相手が望むであろう行動を、相手が欲する仕草をして、全てを包み込むように誘う。
「ジル様……私には、貴女様しかいないのです……」
彼女の真っ黒なローブの裾に口付ける。
彼女の瞳は魔性だ、と誰かが言った。
全てを許容して、内包して、享受するその赤は、何かを欲してやまない者にとって抗い難い魔力を秘めていた。
彼女の微笑みは多くの者にとって都合がいい。
失敗した者は許しを乞い、成果を上げた者は彼女の賛辞を求める。
「クィリナス」
「…………ジル様」
けれど、誰も知らない。
彼女の心を。
彼女の微笑みの意味を。
彼女の言葉の深意を。
彼女の挙動が示すその先を。
誰も、知ることはない。
光の陣営も死喰い人も、あの闇の帝王ですら。
彼女の内側に触れることを許された者はいないのだ。
「クィリナス。さぁ、行きなさい」
「……御意」
クィレルは杖を一振りすると、鋭い音を残して姿をくらました。
静寂とは程遠い森の中で一人残されたジルはクィレルのいた場所を冷めた目で見下ろしていた。
「ふふ、ふふふ……」
冷笑を浮かべたジルはふらふらと酔っている様な足取りで、更に森の奥へと進んでいく。
帝王の血縁
(その瞳に映すのは悪か、善か。)
(何人をも寄せ付けず、引き寄せる魔性の瞳。)
(その瞳に赦されるのは光か、闇か。)