すべてのはじまり
薄膜を一枚隔てた向こう側。
ひたひたと肌を這う恐ろしさに、虎杖悠里は思わず息を潜めた。
季節は初夏。梅雨入りして少しばかり日付が進んだ頃。雨に恵まれた六月にしては晴天が続いた日々の、ある昼下がりのことだった。
「これ持って行ったらオカ研の先輩たち喜んでくれるかな?」
禍々しい空気を孕んだ木箱を片手に、虎杖悠仁が曇りなき笑顔で呟いた。
年季の入った木製の小箱と、そこに納められているのは古めかしい布の包み。経年劣化による傷みは言うまでもなく、長い時間を溜め込んだ匂いと、あとは肌を刺すような悍ましい気配がする。
いくら包み隠そうとも君臨する脅威が消失することはない。気付くことがない悠仁に、心が悲鳴を上げたのは致し方がないことだった。
(急募、弟が劇物以上の劇物を手にしたときの対処法について)
危機感が振り切れて一周どころか二周三周回ると、こうも人間はちゃらんぽらんになるものなのか。脳内で立ち上がったスレッドタイトル形式の現状に、内なる悠里は頭を抱えて俯いた。すぐに頭を振って、混乱の度合いを推し図るにもってこいな思考を追い出す。
時は金なり。流れゆく時間は有限だ。形なくとも価値のある消耗品を非生産的な思案につぎ込む暇はない。
「……どこでそんなもの見つけたの?」
今さらになって所在を尋ねても、手にした事実が消えることはない。理性が呆れているのを聞かなかったことにして返事を待てば、説明するのに迷ったのか小首を傾げながら「校庭?」と打ち返された。
「そっか」
アホか。呑気にそっか、などと返事している場合ではない。
これはきっかけだ。平穏な日常が崩れる、決定的な引き金。
(悠仁が、私の弟が、厄災のような呪いを宿してしまう)
かつて紙上に描かれた物語は胸を躍らせるものであると同時に、ひどく残酷だった。
喜びがあった。楽しみもあった。けれど眩しい出来事の裏に散りばめられた、どうすることもできない怒りがあって、どうしようもない哀しみがあった。
若い時の苦労は買ってでもせよとは世論の常であるが、誰が好き好んで家族に絶望せよと望むものか。むしろ買ってでもするなと抗議したい。今後酸いも甘いも学んでいくのだ、という時期に他者から課せられた苦労など笑わせる。間違いなく人格に悪影響を及ぼすに決まっている。しがみついた希望から叩き落されるような原作の絶望具合を知っているのなら、なおさらの話だった。
前触れもなく記憶が馴染んだときから考えていた。
どうにかして回避できたらと、ずっと考えていた。
道端の物を拾わないだとか、安易に口に入れたりしないだとか、わざわざ秘められた場所を暴かないだとか、お姉ちゃん風吹かして伝えることがあった。危ない場所には行かないように言い含め、ときには手を繋いで安全な道を一緒に帰ることがあった。体験しなくてもいい危険に近づかないように、そうやって立ち回っていたはずなのに。
物語の強制力。
呪縛にも等しい予定調和。
原作のはじまりが駆け寄ってきた現実を認めたくなかった。
いっそ束縛してしまえば良かったのだろうか。これはダメ、あれもダメと教え込んで、言い付けを従順に守らせれば良かったのだろうか。そうすれば少なくとも命を奪われ奪う宿命からは、こっそりと逃がせたかもしれない。
(でも、それは違う)
真綿に包んで守ることが優しさではないと知っている。自由を奪うことは心を縛ることと同じで、強制的な優しさは独善だと知っている。
(でも、……――)
優しい子なのだ。大事な家族なのだ。
世界の裏側など知らないままに大人になってほしかった。誰かを好きになって結ばれて、もしくはひとりでも楽しくやっていけるような未来が訪れてほしかった。ありふれた幸福を当然のように享受してほしかったのだ。
誰よりも幸せに生きてほしいと、それだけを願っていたのに。
(呪いを食めば正しい死を探して戦ってしまう)
誰よりも優しい子が、誰よりも険しい道を往かなければならなくなる。
薄氷のうえに成り立つ幸福を土台から砕くような残酷な事実を知っていて、しかしながら誰にも吐露することはできなかった。未来を知っているとでものたまうのか、見えもしない明日を確定していることとして語るというのか。正気の沙汰でない。
答えは「否」だ。
話すかどうか迷って、惑って、躊躇って、そのたびに何度も飲み込んだ。両面宿儺についても、呪術師についても、呪いのことについてさえも、説明できるはずがなかった。
悠仁のことだ。夢物語染みた話であっても、真剣に言葉を尽くせば耳を傾けてくれるだろう。いくら現実離れしていても、どれほど滑稽であっても、悠里の話だからという理由だけで、きっと信じてくれるのだろう。
説明してしまえば呪いについて知ることになる。
知ってしまえば悠仁は呪いを無視できなくなる。
放ってはおけないという良心に従い、ときに名も知らぬ他者のために自ら渦中へと飛び込もうとするに違いなかった。そういう子だと知っているから、結局悠里はひとり秘密を抱えて沈黙を保ったままでいるしかない。
「先輩たち、喜んでくれるといいね」
心にもないセリフだった。むしろ学生の知的好奇心を満たすための肝試しが、結果的にリアルな命の危機付き夜の学校怪談会に転じてしまうくらいなら、原因を断ってしまったほうが建設的な気がする。
万葉箱に収められていたなら、悠仁とて怪し気なものを拾ったりはしなかったはずだ。
秘められた場所を無意味に暴くな、と口を酸っぱくして言い聞かせてきただけの分別はある。宿儺の指が封じられた箱を拾ったのは、たとえ場所が校庭でなくとも、本当に何気ない場所に偶然にも落ちていたのだろう。
だから原作通り悠仁は小箱を落とし物感覚で拾ったし、明らかに個人の所有物ではないそれを、研究部の友人に渡そうとしている。
(やっぱり取り上げる? だけど理由が説明できない。せめて封印が解かれなければ悠仁が巻き込まれることはないんだろうけど、……無理だろうな)
呪われた代物を手にしたオカルト研究部二人の未来を知っていながらも考えるのは悠仁の今後についてだった。薄情と罵られようがかまわない。家族が無事であるのなら他人のことは二の次だ。
誰が何と言おうと悠里にとっての大切なものは揺るがない。自分の身の内に入れた人たちが幸せであれば、大それたことは何も望まないのに。
世界は残酷だ。
ささやかな願いさえ簡単に奪っていく。
焦燥を噛み砕いて、腹立たしさを飲み込んだ。腹の底に溜まっていくドロドロとした感情を消化できないものかと試みながら、表面上は普段通りの笑みを張り付けた。
「こんな見るからに年季物だしさ、絶対楽しんでくれると思うんだよな」
「ふふふ、賑やかな人たちだしね」
「おう!」
腹立たしさはあるが、どう転んでも本当の意味ですぐさま死ぬことはない。
嫌気がさす。防げなかったきっかけへの憎々しさを取り繕って会話を続ける。現実逃避行染みた考えを胸に、呪いの気配に気付いていないふりをして、何事もなく悠里は会話に興じた。
祖父が亡くなった。
控えめな花束を携えて病院にお見舞いに行くのが習慣になって久しくなった頃であった。憎まれ口の応酬はいつも通り軽やかで、途中から真剣に語る口調になった言葉に耳を傾けると、最期には「俺みたいにはなるなよ」と告げて息を引き取った。
らしからぬカッコつけは、目前に差し迫った死を悟っていたからだったのだろう。祖父は苦しむことなく逝った。亡骸の傍で悠仁と一緒になって涙を滲ませて、ナースコール越しに看護師を呼んだ。
胸の喪失を癒やす間もなく看護師の説明に従って死亡手続きをしている最中だった。
黒髪の少年が悠仁の元を訪ねてきた。自らを伏黒恵と名乗った彼は、不機嫌さと苛立ちを隠すこともなく呪い≠ノついて語り、昼間に見つけた箱を渡せと悠仁に要求した。
しかし今や悠仁の手元に指本体はない。伏黒の目的である呪われた指の所有は、すでにオカルト研究部の二人に移っている。
夜の学校で札を剥がすと豪語していた旨を知った伏黒は「ソイツ、死ぬぞ」と、暗がりのなかでも分かるほど顔を青褪めさせた。壁際までふらふらと後退して、すぐに持ち直して駆け出す。
「あ、おい!」
慌てた呼びかけに振り向かない少年の背中を、じぃっ、と悠仁の視線が追う。
動きが止まったのは一瞬だった。止める間もなく悠仁は走り出した。
「ちょっと、悠仁⁈」
「悪い、悠里は待ってて」
手を伸ばす。届かない。
一緒に連れて行っても、もらえない。
夜に突っ込んで行った悠仁の背が次第に遠くなっていく。
こうなることを誰に教えられるでもなく知っていたのに悠里は見送るしかなくて、顔を歪めて伸ばした手を下ろした。
そうして。物語は砂時計が落ちるが如く。
観客を置き去りに真の開幕を迎えるのだ。
待てども悠仁はついぞ帰って来なかった。通知音が鳴ることはなく、着信履歴は一件もない。不安に苛まれて眠れない夜を、すっかり寂しくなってしまった家でひとり過ごした。
あくる日のことである。
悠仁は両の頬に独特な傷をこさえ、星月のない夜の気配を纏わせて帰宅した。背後に、――全身黒の衣装に身を包んだ男を引き連れて。
「俺、東京の学校行くから」
高らかに。
そう告げた。
希望ではなく断定。こうすると表明した決意。
大雑把に見えて、その実相手を気遣うことができる悠仁のことだ。祖父亡きあとの生活を考える余裕があれば、もしくは自らの出した答えに少しでも迷いがあれば、そんなふうに何人たりとも遮ることはできないと、態度で示すことはなかっただろうに。
(こうなることは知ってたのに)
幼い頃から地道に積み重ねてきた小細工があった。
策略にも満たない小手先だけの行動があった。
原作佳境に至るはじまりを潰すための、思い付く限りの準備だけは十全で、特別な力など何一つ持たない悠里にとっては精一杯の抵抗だった。
(それでも)
足りなかった。
圧倒的に力不足だった。
迫りくる宿命はおろか、祖父の遺した呪いのような言葉「人を助けろ」にさえ勝てなかった。
誰かの役に立たなくたっていい。
誰かのために生きなくたっていい。
人を助けるのは尊いことだけれど、自分自身のことを優先してほしかった。至極普遍なこととして普通の幸せを受け取ってほしかった。少なくとも子どもである悠仁には、与えられるべき権利があったはずだ。
なのに、人生に重たいものを背負ってしまった。
これから降りかかるものは災難ばかりではない。稀有な出会いもあれば、掛け替えのない人間関係を築くことも、爆発的な成長だって迎えるだろう。この世界はそういう物語であり、そして悠仁がそういう人間性であることを、骨身に染みて知っている。
(でも、壊れる寸前までの絶望を浴びる必要なんてない)
未来を思うと心が軋む。
しかれども選んだのは悠仁だ。振り返ることはあっても、後悔も反省もすることはあっても、決めたのも悠仁だから。外野が何を言おうが、もう梃子てこでも動かないのだろう。
重々しい内情とは裏腹に、向かい合った男は軽やかな口調で語りはじめた。
「うちは私立の宗教系学校でね、……――」
白銀が、黒に浮かんでいるような姿だった。
ゆるく逆立てた銀髪。
上下ともに黒い色の服。
細長いという印象を受ける身体。
服と同じ黒さの布で大半を覆い隠された顔。
かろうじて鼻と口だけが見える程度で表情は分からなかったが、声だけは弾んでいるように聞こえた。
紙面で心ときめかせる目隠れキャラたち――サングラス、逆光眼鏡、眼帯、帽子、覆面、仮面、目隠し布、長い前髪、他エトセトラ……――ではあるが、どうやら実際に現れるとなれば話は違うらしい。
あからさまに怪しかった。
明け透けに表現するのであれば「不審者」の格好である。
どことなく軽薄さを感じさせる雰囲気に、加えて奇抜な服装である。原作という知識にによって目の前の男が最強の名を欲しいままにし、モデルも裸足で脱げだす容貌をしていることも知っているが、いかんせん胡散臭さは拭えない。
そんな男が。
家族を連れて行こうとしている。
概要や設備、雰囲気、寮、金銭面、推薦制度、……等々、これから悠仁が通うことになる学校に関して、つらつらと語る内容は破格で、本来であれば垂涎ものだ。しかし平時であれば諸手を上げて喜ぶ条件も、家族の安全と引き換えであるのなら別物だ。
(好待遇? 万全のサポート? それで?)
そちらの都合など悠里にとっては露ほども関係ねえのである。
これから通うことになる学校の実態を知っているとなれば切り捨て御免な案件だ。誰が諸手を挙げて家族を死地に送るものか。
顔に浮かべる表情は穏やかに。
所作は過去最高にたおやかに。
声だけは凛と、言葉を紡いで。
何も知らない少女が、たったひとりの家族を心配しているふうに。騙されている者と、騙している者との確執だと誤認できる程度の勘違いを装って。
「生憎と宗教は間に合ってますので」
「へっ?」
「おかえりはあちらです、どうぞ」
「えっ?」
「聞えませんでした? おかえりはあちらです、とお伝えしたんです」
隙ひとつない完璧なおもてなし武装で、黒子スタイルの男に対し、指先を揃えた悠里は玄関を指し示した。
まあ結局のところ。
世知辛いことではあるが、話が入学へと流れていくのは決定事項であった。
焦った調子で「ちょっと待ってよ、悠仁のお姉さん」などと言い募る見た目怪しい教師にあれよこれよと言う間に説得された。もちろん悠仁の説得もくっついてくるという二段構えである。勝てる理由がない。
知っている。
宿儺の指を飲み込んだ悠仁が普通の生活を送れないなんてことは、嫌になるほど理解している。なんにせよ宮城にいることはできなかっただろう。五条が連れて行ったのだって、悠仁にとっては延命措置のひとつである。生きるために避けては通れない。
そんなことは知っているのだ。悠仁が説明しなくとも。
(納得できるかは別だけど)
感情が追いついてこないだけで理解はしている。
しかし理由のひとつやふたつ説明してくれても良かったのではないだろうか。
東京の宗教系の学校に行く、と悠仁は言った。
五条は学校概要の諸々を説明した。穴でもあれば矛盾でも指摘してやろうと思っていたのに、手慣れているのだろうか意外にも棒で突けるようなボロは出なかった。せめて部活推薦だのと口を滑らせてくれたのなら、スポーツ漫画のおかげで詳しくなった出場規定を持ち出して問いただしたものを。
嘘ではないが真実でもない説得には隙がなく、確信に迫るようなことはのらりくらりと躱される。針で刺し過ぎれば悠里が呪いを見えることが露見してしまうし、内心「はぐらかしてくれおってからに」と幾度も悪態吐いた。
呪いのことは。
「最後まで話してくれなかったか」
ひとりぽつんと残された家で。小さな不満を誤魔化ごまかすかのように、普段よりも精力的に片付けながら呟けば、一抹の寂しさに震えそうになる。
意地悪ではなかった。
それが確かに優しさであると、大切に思われている悠里は知っている。
家族を悠仁自身の呪い騒動に巻き込むまいと懸命に遠ざけようとする優しさを、悠仁の[#ruby=為人_ひととなり]と、原作を知る自分が無碍にできるはずもなく。
「巻き込んでくれても良かったのになあ」
隠し事には踏み込めないままに健気な弟を送り出したのだ。
埃を払った台の上に、古ぼけた額縁に収まった写真。そこには祖父と悠仁、それに悠里を加えた三人が並ぶ姿があった。
「ねえ、悠仁」
五条悟は問うた。
「なに、五条先生」
虎杖悠仁は応えた。
おどけたように「お姉さんに言わなくて良かったの?」なんて尋ねてくる五条の言わんとする内容を、あえて聞かずとも理解していた。
呪いについて。
両面宿儺について。
今の悠仁の身に関する、全部について。
長く離れ離れになる家族に、多少なりとも説明しなくて良かったのか。と、突かれたくないところを、遠慮の一欠片もなく五条が刺してくる。
「俺ね、先生」
「うん」
「悠里のことが大好きなわけ」
両親は物心ついた頃からいなかった。
育ての親である祖父のことは大好きだが、両親に甘やかされる同級生たちを見て、羨ましくなかったと言えば嘘になる。
その孤独を埋めるように。
悠里は自分を大切にしてくれた。
良いことをすれば褒めてくれた。悪いことをすれば叱ってくれた。
わからないことがあれば教えてくれたし、あとはたぶん、人としての常識のほとんどは悠里が教えてくれたような気さえする。
寂しいと泣けば傍にいてくれたし、もっと遊びたいと駄々をこねれば気が済むまで付き合ってくれた。他人よりも頑丈な身体である悠仁が他の子どもたちの遊びの輪に混ざるのを躊躇うときだって、大丈夫だと言って安心させてくれた。祖父が入院してからも、不安がる自分に寄り添ってくれた。
いつの間にか悠仁よりも小さくなっていた背中は、けれど今なおも頼もしいままで。怖いことから守ってくれるように前を歩く悠里に、ずっと助けられてきた。
穏やかな日常の、その象徴のようなひと。
ありふれた幸せに満たされた日々を、生きていくべきひと。
そんな家族のことを巻き込むことは、ほんの少しさえも許せなかった。
同時に不義理であるとも思う。支えられ、ときに支え、助け合って生きてきた家族に対して、隠し事にするには世界の裏側のことは大きすぎたのだ。
「巻き込みたくない」
だけど。
「黙っていることが正しいとも思えない」
もしも逆の立場であったなら。瞳を閉じて悠仁は考えてみる。
無理矢理聞き出すことはできないし、できることなら自分もしたくない。理由があって、そうする必要があって口を噤つぐむのだろうから。
(ただ、……――)
抱え込まれるのは寂しい。
頼ってもらえないのは悲しい。
だってもしも悠里が困ったことになったら、何があっても助けになってやりたい。でも原因を知らないと助けることもできないから、困ったことが起これば、もしくはどうしようもなくなる前に声を上げてほしい。
きっと悠里だって同じだ。
悠仁が困ったことになれば絶対に助けたいと思ってくれる。そういう人なのだと、悠仁はもう随分と前から知っている。
「でも言えないから」
危険のなかに飛び込んだことは、ついぞ秘めたままで。
逆の立場になれば同じ気持ちになるのを知っていてなお、悠仁は口を閉ざすことを選んだのだ。
「知らないことこそが身を守ることもある」
五条は断言した。
「知らなければ無い≠フと同じさ」
口調こそ軽く、ただし内容は言い聞かせるように重く。
「彼女は呪いを知らないままで、いつもと変わらない日常を、いつもと同じように生きていくことができる。何も伝えなかった悠仁のおかげだよ、これだけは間違いなくね」
悠里が普通通りに生活できると保障されたも同然の言葉だった。
胸の内への安堵の広がり様は、緊張の糸が解ける感覚にも似ていた。少なくとも大切な家族だけは、万が一にも傷つくことはない場所で生きていくことができる。
けれどそれは同時に――ひどく残酷なことじゃないだろうか。