柔らかに広がる白絹に、施されるは金糸の刺繍。
目が覚めると、そこは華奢なシーツの海だった。
肌触りの良いふかふかなベッドのなかで迎えた意識の覚醒は、お世辞にも爽やかとは言えない。痛みとともに気を失ったら、またも見知らぬ場所へと、しかも私の意思とは関係なく移動していた。好感情であれるほうが難しい。
——ここはどこだろう。
そう思って真っ先に目を引いたのは、水底の色をしたヴェールの天蓋だった。
薄地越しに穏やかな照明の光が振ってくるなか、周囲を見渡すと、大きさも色も様々なハードカバーの本がズラリと並んでいるのが見えた。窓際に置かれたベッドを避けるようにして、天井まで届く壁付の本棚が作られている。紙の匂いと、あとはたぶんインクの香り。まるで本の森のなかにいるみたいだった。
蔵書の数々に見惚れてはいられない。ベッドから起き上がろうと身体に力をこめると、
「……目が覚めましたか」
落ち着いた声がした。
鼓膜の奥に馴染むような、そんな声だった。
足音も聞こえなかったのだから、もちろん誰かが入ってきたのなんて気付くはずもなく。足音を忍ばせてひっそりと訪ねてきた驚きに、心構えのない肩が思わず跳ねてしまう。
慌てて顔を上げると、そこにはひどく美しい男の姿があった。
滑らかな陶器肌。細身の体躯。
照明を浴びて輝く、柔らかな癖のある銀の髪。
晴れた日の、白みを含んだ青空を切り取ってはめ込んだような瞳。片方の目元にはひとつホクロがあった。
起き抜けに人外めいた端正な顔立ちが現れることなんて、この先もう二度とないんじゃなかろうか。
とんでもない状況とは不釣り合いな思考だった。薔薇園でのことだとか、意識を失ったことだとか、そもそも異世界に来たことだとか。考えるべきことはあるけど頭が回らない。
なにせここに来るまでに色々と理解の範疇を飛び越えることがてんこ盛りだったから。黙って大人しくしているのは、いっそ諦めにも似た受容だった。
「はじめまして、アズール・アーシェングロットと申します」
仕立ての良いスーツを身に纏い、優雅に紳士の礼をしてみせた男は、自らをアズール・アーシェングロットと名乗った。
血が通い、命ある生き物。だけど浮かべられた表情は、顔の造形が美しいからこそ、どこか冷たい無機物を思わせた。
この男が、
(母の、愛したひと)
あれほどまでに、母が想った相手。
心を奪われ、そして、愛を与えたひと。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、いざ目の前に立たれると、喉が凍って声が出なくなる。
口を開けて、また閉じて。
貝のように口噤んで、また開いて。
どこかに言葉を置き忘れてしまって、取りに戻ることもできない。結局は水槽の小魚みたいに唇をパクパクと動かすだけで終わってしまう。
「起きたばかりで落ち着かないでしょう、遅めの朝食を用意しています。案内をさせるモノを遣わせますから、準備が整い次第おいでなさい」
何も言えない姿を見かねたのか、男はそう言った。
まぎれもなく気遣いだった。なのに少女はたまらなくなって、反射的に胸の内とは真逆の言葉を返した。
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
口をついて出たそれは、ただの強がりだった。
本当は全然大丈夫なんかじゃない。伝えるための言葉を考える余裕はないし、口どころか、身体だって上手く動かないような気がする。
——でも今を逃してしまったら、次にいつ会えるかわからない。
口約束は所詮口約束だ。もしかしたら少女を待つ間に急用が入って出掛けてしまうかもしれないし、そもそも男が待つ必要はないのだ。とりあえず少女が起きたのを確認しただけで、あとは置いていかれるのかもしれない。
もとより、偶然にもテレビ映る機会を得て、そこで母の仕草を模倣したのは賭けだった。
本当に目に留めてもらえるとは思わなかった。たとえ目に留めたとしても、こうして会うことができるなんて思ってもみなかった。それに母によく似た姿の少女ではあるが、どう真似たって母本人じゃあない。他人の空似だと切り捨てられる可能性だってあった。
だから今しかない。訊きたいことがあるのなら、伝えたいことがあるのなら、すぐにでも行動すべきだ。
少女は自分のことを認知をしてほしいわけじゃない。確かな事実をひとつ、――母が貴方を愛していることを――目の間の男に知ってもらいたい、だけ。
(だったのになあ)
そのはずだったのに。時が過ぎるにつれて、次第に願いは強欲になっていた。
物心ついたときには考えていた。どんな手段でもいいから母の愛を伝えられないか、と。会えないのならせめてどうにか知ってもらえないか、と。それだけで良いと思っていたはずなのに。
(それだけでいいなんて、本当は嘘だ)
だって、母はどうなる?
世界を隔ててなお、たったひとりに思慕を捧げた母は、どうなる?
異世界に連れ去られ、元の世界に戻っても誰に話すこともできず。愛を育んだ相手とも引き裂かれ、なのに少女という重荷を背負って生きてきた母は、それでも真っ直ぐに心を紡いで。
知ってもらうだけじゃあ、あまりにも母が報われないではないか。
「……ずっと会いたいと思ってました。貴方に伝えたいことがたくさんあります」
柔らかな寝床は離れがたくとも、起き上がり、両の足で床を踏みしめる。
息を吸い込んで。伝えようとすることに怯える喉を叱咤する。
小刻みに震える指を、手のひらのなかに握り込む。
「母の名は、ユウ」
誰よりも美しかった母を思う。
頭を撫でる温もりも。過去を語る柔らかな声音も。想いを伝え重ねる姿も。ぜんぶひっくるめて伝えなければ、きっと――少女が生まれて来た意味がない。
『愛している』
『これまでも、これからも』
『あなたも、あのひとのことも』
『あなたの名前を、生まれる前から決めてた』
『あのひとと、私の、名前から音をとって』
母の言葉が鮮明に蘇る。
繰り返し、何度も何度も、想いが込められた言葉を。
海と陸。
人魚と人間。
世界と異世界。
偶然が重なって出会った。時間を積み上げて愛になった。手が離れても胎で血が交わり、名付けの祝福は互いから混ぜ合わせた。
世界を隔ててさえ繋がりを温めたことを、――愛と呼ばなければ、何と呼ぶというのだ。
「私の名前は、ユズル」
この名と、この命をもって。
母の愛の、証明を。