アズールは情のきっかけを覚えていない。
それどころか、恋の芽生えすら覚えていない。
記憶にあるのは愛を自覚した瞬間だ。息を吐く間もなく、平穏だった視界がマリンスノーで埋め尽くされるような、冷えた思考にアイスバブルが立ち上がるような、まるで自分の世界だけが切り離されたような感覚。
いつかの日のこと。胸の底にすとんと落ちてきた感情の芽生えは、物語で読み知ったものよりも、両親に伝え聞いたものよりも、ずっとずっと手に負えないものだった。
人魚の恋は、あまりにも一途だ。
かの人魚の姫は、美しい声を対価にしてまで尾ひれを捨て、代わりに二本の足を与えられ、陸に上がったのだという。
時折海上から降って降りてくる地上のものに瞳を輝かせ、こっそりと出掛けた夜の海で見た人間に心ときめかせた。そうして降り積もった陸への憧れを叶えるために、人魚の命とも言える声を差し出した。
人魚の愛は、あまりにも誠実だ。
子どもに読み聞かせるおとぎ話としても残るような波乱を越えて、彼女は愛する人間と結ばれる。
結ばれる前、心を通わせたにも関わらず、彼女らは陸と海を隔てて離ればなれになった。今すぐにでも会いたいと願いながら、想いを温め続けた。誰よりも幸せであってほしいと祈りながら、胸を焦がし続けた。
望み、求め。恋慕った。
世にも愛しい、たったひとり。
(あなただけ)
そんな風に誰かを欲しがることが、愛だなんて。
誰も教えてくれなかったのに。
本当は、引きずり込もうと目論んでいた。どこまでも、どこまでもどこまでも、深いところまで。自分と同じところまで落ちてきてほしかったのに、あろうことかアズールは引っぱり上げられてしまった。落ちてこいと伸ばした手はしっかりと握りかえされて、意図とは逆に、いとも簡単に引きずり出されたのだ。
ひっそりと腹の奥底で抱きかかえる思い出は、水面に浮かぶのを厭うて、いつだって明らかになるのに怯えている気がする。他人に語ったこともなければ、教えるつもりも毛頭ない。この先もしも誰かに語る機会があるのだとすればユウにだけだろう。
複雑奇怪な感情を、理解なんてされなくていい。
欲しがったものがユウであった。それだけがすべてだったから。
けれどアズールは強欲だ。何を犠牲にしてでもユウが欲しいのに、彼女の他には何もいらないとは口が裂けても言えない。
言葉通り“ユウ”が欲しい。
彼女のすべてが欲しいのだ。
過去も未来も、人生の全部さえ含めて。命尽きるときの、その最後の一滴まで、一番近い場所に存在してくれなければ嫌だ。
なのに、別れは唐突で。
何もわからないままに引き離された。
説明はなかった。理解もしたくない。納得なんて、もっとできるはずがなかった。いくら喚こうが、泣き叫ぼうが、ユウがかえってくることはなく。肌に触れる熱も、耳に響く声も、気配すら感じることもできず。自らの命と等しいまでに大切なものは、掴み留めようとする指の間を、するりと流れ落ちていってしまった。引き裂かれ幸福は瞬く間に絶望へとその姿を変え、予期せず訪えた暗がりの淵でアズールが誓ったのは、必ずユウを取り戻すのだ、ということ。
それがどんなに困難だろうと、できるはずだった。
なぜなら、アズールは稀代の努力家なのだから。
八本の足を過ぎ、十本の両手指さえも通り過ぎて、それでも諦めることなどできなかった。ユウを取り戻すために、ただひたすら駆け抜けてきた十八年だった。時間をかけ、金を費やし、技術を得て、たぶん命すらも溶かして、ようやく手がかりまで漕ぎつけた。
そんな風にして渇望した手がかりが今、小さな生き物の姿をして、アズールの目の前で言葉を紡いでいく。
「私の名前は、ユズル」
と、目の前の小さな生き物は言った。
こちらを真っ直ぐに射貫くように見つめる生き物――少女は、ユウとアズールの子どもなのだという。
容姿がユウに似ていること。身体のどこかに眠る魔力の気配が、なんとなく自分に似ていること。画面越しに見たユウの面影と対し、たしかに本人と言うには物足りず、他人と言うにはあまりにも共通点が多すぎたのだ。
口には出さず音名前を舌のうえで転がしてみる。
発音に馴染みはない。意味も、どのようなものなのだろう。ユウの故郷の言葉だと予想はできるが、本当のところはアズールにわからない。しかし由来を聞いてしまえば、どこか懐かしい気さえするのだから、感情とは現金なものだ。
――名付けとは、呪いのひとつである。
生まれた命の幸先を願い、健やかであるようにと祈る、誰しもが使えるこの世でもっとも短い魔法の言葉だ。
こうあってほしい、と。
そうなるように、と。
ああなるように、と。どうなってほしい、と。
意思表示のできない小さな命に願いを押し付け、一方的に祈りを捧ぐことが、傲慢だと思わなくもないけれど。アズールとユウの名から音をとって混ぜたというそれは、たしかに祝福だったのだ。
両親の音をとる、ということは。たとえ傍にいなくとも、心だけは寄り添っていると。いついかなるときも盾となり、また矛となり、我が子を守ろうとする、切なる望みだ。
その祝福を一身に受けた少女が、アズールとユウの血を受け継ぐ子であるのなら。
――それはつまり。
(ユウが、僕と求め合った先に孕んだということで)
人間は、身体のうちで、それも胎のなかで、命のはじまりを迎える。子宮のなかに満ちる羊水は海水に似ていて、十ヵ月十日という期間を、自由のきかない胎児は小さな海のなかで過ごす。
――それはつまり。
(小さな原初の海で十ヶ月十日、交えた血を守り続けたということで)
そして何より、母親にとっても出産は命懸けだ。寄せては引き返しを繰り返す陣痛と、臓器から溢れる出血は、極限まで生命力を削る。新たな生の誕生の傍らには、いつだって死が付き添っているのだ。
――それはつまり。
(命懸けで新しい命を産んだということで)
愛を形にすることが、子どもを授かるということと、けして同等式で成り立つわけではないけれど。
あの小さな身体で人魚の子どもを、魔力を持たぬ肉体で魔力を有す子を、その身に宿し、育んだ。世界さえ離れた場所で、パートナーすらも傍にいないユウが、それでも産み、育てることを選んでくれた。
想像を絶する苦労があっただろう。
誰にも頼ることのできない孤独があっただろう。
異世界の、それも異種族の子どもを身籠ったユウの芳しくない状況は、想像に難くない。
それでも、ユウが一番助けを必要としていたときに傍にいられなかった悔しさと同時に、湧き上がってくるのは、――選ばれたという、仄暗さを含む歓喜であった。
その事実は何よりもアズールの胸を焼いた。じわじわと。浸していくのは。
――嗚呼、そうか。
(僕は嬉しいのか)
唇がわなないた。喉の奥が詰まった。
嬉しいのに。泣きたくなるほど嬉しいのに。
ただ泣きたくなるほどの喜びを分かち合う相手だけが、アズールの傍にいなかったのだ。