落ちて墜ちて堕ちて 

 話をしましょう、とアズールは話しかけた。
 わかりました、とユズルは答えた。

「ユウは、……君の母親は、どのような方ですか」
「……貴方のほうこそ、よくご存じであると思いますが」

 それでもいいのか、とユズルは問うた。
 それがいいのだ、とアズールは請うた。

「お人好しで、なのに芯が強くって」
「かわりませんねえ」

 懐かしい、とアズールは目を細めた。
 そうなんですか、とユズルは首を傾げた。

「それから?」
「まるで、台風の目のなかに飛び込んできた太陽みたいなひとでした」

 貴方から見た母のことが知りたいと、ユズルは微笑んだ。
 では何から話しましょうか、とアズールも微笑んだ。

「そうですね、まずはなにから語るべきなのでしょうか」

 アズールは瞼を閉じた。
 ひとつ浮かんでは、連なり弾けていく泡のように、次々と連想されてくる思い出たち。記憶の箱に大切に仕舞い込んだそれらは膨大で、何から言葉にしていけばいいのかわからなくなる。
 それでも。それでも、だ。
 きっとこの子にこそ伝えなければ、何もはじまりはしないのだろう。いつかの通り過ぎ去っていった日々をさらうために、アズールはゆっくりと記憶に潜りこんだ。





「先輩!」
 そうやって笑いかけてくるユウのことが、正直なところ、あの頃のアズールは苦手だった。それこそ反吐が出そうになるほど。

 一滴の魔力さえも持たぬ身で魔法士育成学園に特例入学した生徒。
 グレートセブンになぞらえた七寮には劣るとも、オンボロ寮の監督生という肩書き。

 なによりも、自身のオーバーブロットのきっかけのひとつを担った生徒。
 実際オーバーブロットに至ることとなった発端が、そもそも学園長にあることは、今となっては重々承知している。されとて過去はあくまでも過去だ。特定の生徒に対して破格の待遇が用意されていることや、ご破算にされた利益のことを考えると、好意的な感情が向いているほうがおかしい状況だった。

 けれど、ユウは「稀代の努力家だ」と、何のてらいもなく言った。

 媚びも、憐れみも、一切に情けすらもなく。ただ思ったことを口にしただけの、ユウにとってはなんてことのない一言だったのだろう。しかし悪意という不純物が一欠片も含まれていない言葉は、尖った歯と同じ鋭利さでアズールの心の柔いとこに噛みついていった。
 それこそ小さな引っ掛かりで、何とも思ってなかったはずなのに。
 やれ火を噴く魔獣が逃げ出しただの、やれホウキを二人乗りして屋根の上に置いてけぼりにされただの、やれどこぞの寮で監禁されただの、やれオーバーブロットの場に居合わせただの、本当に話題に事欠かなかった。

 渦潮の目のような、そんな騒がしい人間がユウだった。

 いつの間にか渦中にいて、気が付けば荒波立つ事件を解決している。見事なまでの巻き込まれ体質であるユウの名を、学園内で聞かない日のほうが少なかった。

 苦手意識を持ったユウとの関係の転機は、モストロ・ラウンジに導入したポイントカード制度だった。
「ポイントが溜まりました。お願いがあります」
 最初から最後まで、ぴったりと揃えて満了になったカードを差し出した。
 VIPルームで真剣な表情で懇願されたのは、勉強を教えてください、というシンプルで一般的なものだった。
「虎の巻が必要です? イソギンチャクだなんてセコいことはしませんよ」
「う、甘い誘惑ですね」
「どうしますか」
 周囲の有象無象と同じになってしまえば、噛みつかれた痕なんて気にならなくなるのではないか。淡い希望はこれまたぽっきりと否定されることになる。
「まあ自分でしないと意味ないですし」
 付随した「楽はしたいけど」の呟きに反し、以外にも理由は真っ当なもので。その代わり、とスタンプの貯まったカードをひらつかせながらユウは笑った。
「ちゃんと教えてくださいね、先輩」
 それを機にはじまった勉強会は、そう悪いものではなかった。
 ナイトレイブンカレッジの多くの生徒に通じる屁理屈をこねくり回すような性格でもなく、ユウは真面目で、教えたことを素直に知識として消化できるタイプだった。あと後輩に慕われるとはこういうことなのだろうか、含みのない「すごい」「ありがとうございます」といった尊敬の眼差しに、むず痒くなったことを覚えている。
 教えを請うユウは、まるでエレメンタリースクールの子どもだった。

 否、それ以上にあまりにも無知だった。
 いっそ、不自然なほどに。

 初級にも満たないレベルの魔法に関する知識をはじめ、かの有名なグレートセブンの有名節、子守歌としても文学としても名高い童謡、一般常識すら危うい。勉強ができないという話ではなく、むしろ「知らない」という表現のほうが正しい程だった。
 見かねて尋ねれば、やはり答えは渦潮の目と形容するに相応しいもので。

「ああ、言ってなかったですかね」

 世間話でもするような、なんでもないふうに。

「私、異世界から来たんです」

 突拍子もない言葉を落とし。

「内緒ですよ」

 アズールの目をまあるくさせたのだった。





 魔法のない世界からやってきたユウとの勉強会は、思いのほか長くなっていた。
 無知の原因を知ってしまえば、途中で投げ出してしまえなくなったからだ。
 大海に稚魚を放つような、いや、稚魚であったほうがずっと良かった。彼らには少なくとも生き抜くための本能があり、生活するための知識が、日々を円滑に過ごすための常識がある。しかしながらユウはそれらを持ち得ておらず、さすがのアズールも放置しておくのは気が咎めてしまった。
 勉強会が続けば、おのずと共有する時間は増える。共有する時間が増えれば、関係性も変化していくというもの。気の置けない友人とまではいかなくても、それなりに仲の良い先輩と後輩になっていった。親密度が変化するにつれて雑談は増え、会話の内容は深まっていく。そう、――触れては、火傷してしまうようなところまで。
それは出身地の話になったときのこと。
 珊瑚の海、北に位置する故郷について。肌と心に馴染む懐かしさのなかで、実家の話がでないはずもなく、アズールは自らの家族について語った。別になんてことのない、話題のひとつ。何気ない会話のとっかかりであるはずの内容は、けれど確かに自覚の引き金となった。

 息を飲んだ音。喉が詰まった音。
 それから、ぽろりと何かが零れた音。

 人間の目から落ちていく真珠は、懐かしい匂いのする水でできていた。重力に従ってほたほたと流れていく雫が、か細く震える嗚咽が滲んで、ようやく涙であることに気づく。

 ごめんなさいと謝った。小さく唇を震わせた。
 おかあさんと呟いた。湿った鼻を鳴らした。
 かえりたいと泣いた。瞼が薄い赤に染まった。

 その姿が、
 あまりにも哀れで。

 本当は、小さな頃の自分の姿に重ねたのかもしれなかった。泣いて、泣いて泣いて、泣き果てて。誰にも手を差し伸べてもらえず、蹲ったままだった過去の自分に。

「……会わせて、あげましょうか」

 夢のなかだけにはなりますが、とアズールは注釈する。
 精神へ干渉する魔法の一種だ。
 対象者の記憶を辿り、深層心理を読み取るのは困難を極めるとされている。お互いに同意があっても相手が魔法士であれば、自らに向けられた魔力干渉に対する防衛反応が働くからだ。しかしユウが対象者となるであれば、なにせ魔力を持たぬ身だ、何の障害もなく干渉できてしまうだろう。

 相手が思い描くものを紐解く。
 望むものをなぞり、偶像を象る。

 願望を虚無のなかに映す魔法は甘美なものだ。錯覚であれど、失った者にさえも会えてしまう虚像は、対象者を惑わし、いつだって心を鷲掴みにする。

 せめて夢ならば幸福に。

 人間よりも長いときを生きる人魚は、種の本能に比例するようにその術に長けている。
 刹那の運命を嗅ぎとるのに、永遠を求めてやまないから。一途に、誠実に、たったひとつだけを望み続ける生き物だから。

「優しい夢を見るのは罪ではないですよ」

 望むことも、また同じく。
 海の魔女に倣い、この真面目な後輩に慈悲のひとつでも与えてやればいいと思っていたのに、ユウは言外に不要だと含ませて、なんとも言えない表情をした。

「バカだなあ、先輩は」
「この僕が、馬鹿ですって?」

 わからなかった。
 だって辛いのなら、縋るものがあってもいいじゃないか。

「ふふふ、だって」

 偽物なんていらないでしょう。
 努力して、その先に勝ち取ったものが本物であるように。幻想を掴む、それは積み重ねてきたアズールの過去こそ、否定するものではないか。

「それでもって、なんて、……――」

 情けか、それとも哀れみか。
 どちらにせよ。

「なんて、やさしいひと」

 夢を与えようとしてくれた気持ちが嬉しかったのだ、と。
 泡にでもなって、溶け入りそうな声で、静かにユウは囁いた。

 溢れる涙はとめどなく、故郷に焦がれる鳴き声もやまない。いくら優秀な頭を悩ませても、このときばかりは解決策は浮かんでこず、啜り泣く姿をただ傍らで眺めているしかなかった。

 ぽたぽたと胸の底に積もっていく、何かに。
 誰かのために優しくありたいと、はじめて心の底からアズールは思ったのだ。





 捨てねばならぬ恋だった。実らせてはならぬ恋だった。
 元の世界に焦がれるユウを真実思うのであれば、手を離さねばならなかったのに。なにそれと理由を付けて重ね続けた時間は、いつしかユウのことを、どこにも行けなくさせてしまっていた。
 離別のときを迎えることを知っていて、それでも付き合い始めたのは、打算があったからだ。情が湧いてしまえばこの世界に留まるかもしれないという、これから先に続く未来をアズールと共に過ごすことを選ぶかもしれないという、ユウの優しさに漬け込むのと同義の考え方。
 本当は、わかっていたのだ。人魚がありのままの姿で陸では生きていけないように、人間が海では生きていけないことなんて。

 けれど、恋をしてしまった。
 なにより、愛してしまった。

 恋と愛。どちらも罪でもなければ、罰を受けることでもない。生けとし生けるものが年重ねていく途中に、もしかしたら通る道のひとつとしてあるもので、ただし万物において共通することではない。それと同じく、至極普遍的なことでもあった。

 欲しいのに、傷つけたくない。
 だって、アズールは優しくありたかったのだ。

 溢れ落ちた涙に、そう思ってしまったあの日から。
 故郷を恋しがるユウを返してあげたい。世界すら飛び跳ねてやってきた迷子の、帰る手助けをしてやりたい。
(嘘じゃあない。でも、……)
 離したくない。帰る術なんて潰してしまいたい。縛りつけて、どこにも行けなくして、蛸壺のなかに仕舞い込んでしまいたい。
 二律背反の思考はうるさかった。どこにいても、どんなときも、しつこく纏わりついてくる。切り刻むことも、振り払うこともできなかった。自身の優秀な頭脳に頼り感情を消す魔法薬でも作ってやろうかと何度考えたかわからない。
 揺れる感情に戸惑い、悩むアズールの迷いを吹き飛ばすかのように。

「ぜんぶ、あげます」

 ユウは宣言した。

「この身体も、この心も」

 無邪気な幼子の無垢さで。

「これから続く未来だって」

 玉座に坐す女王の傲慢さで。

「本当に望んでくれるのなら、全部あげます」

 慈悲深き人間の、それはきっと恋する女の強かさで。

 その代わり、とユウは艶やかに微笑んでみせた。

「こちらからも同じだけの対価を、先輩に要求します」

 たどたどしく指折り数え、突きつけられていく条件は可愛らしく、それでいて切実で、ただのひとつも聞き逃せないものだった。

「思いを言葉にしてほしいです」
「あ、態度でも示してくれないと嫌ですね」
「朝がきたらおはようと挨拶して、夜がくればおやすみなさいと頭を撫でてほしいです」

 それから、あとは。
 元の世界を手放したことなんて、別に大したことじゃあなかった。

「そうやって、いつの日か思えるように」

 声音は甘やかで、言葉はしとやかな悲しみと、溢れんばかりの愛しさに満ちていた。
 惜しむことなく胸のうちを紡いでいくユウは、

「アズールも、全部ちょうだい」

 ひどい人間だった。
 優しくありたいと願い、できるだけ紳士でいようとしたアズールの心を、これっぽっちも知らないでいるのに、アズールが欲しがるものをすべて与えてくれるのだと宣った。
 ひとに向けるには重たい執着も、ひとに注ぐには過ぎた激情も、すべて受け容れてくれるのか。

 ――本当に?

 たまらなくなって、細い身体を掻き抱いた。
 触れた肌はなめらかだった。絡めとった手は小さかった。
 誓いのように交わした口付けは甘く、この腕のなかに潜り込んできた人間に、――もう手放せない、と思った。

「馬鹿は貴方のほうだ」

 声は震えていなかっただろうか。
 すこしでも、優しくあれただろうか。

 力加減ひとつで砕けてしまいそうな、薄く、まろい身体。抱きしめた柔らかな温度は、北の海に生まれたアズールにとっては熱いものだった。
 




モストロの子ども
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宵、泳ぐ鳥