きっとそれでいい
どれほどの想いを抱えて、生きてきたのだろう。感情の伴った男の記憶を聞いて、湧き上がってきたのは当然とも言える疑問だった。
好きだから逃げてほしい。
愛してるから帰してあげる。
遠くまで離れてくれないと、――追い詰めて、どこにも行けなくさせてしまうから。
誰よりも欲しがったくせに、なぜそんな甘っちょろいことを宣ってられたのか。渇望と慈愛で彷徨った男を内心で詰った言葉は弱々しく、同時に滲んでいくのは安堵だった。
あまりにも一途に、どこまでも誠実に、
(母は、愛されていた)
そして今もなお、愛されている。
それだけで良かった。
それだけがすべてだった。
締めつけるような恋も、溺れるほどの愛も、ユズルにはまだ完全にはわからない。思い出を大事に仕舞い込んで、想いの丈を全身で語る男の姿を見て、ただただ報われたとだけ思った。傍にいたからこそ知っている母の思慕が、ようやく、ようやく実を結び、やっと芽吹き始めたのだと感じた。
「……どうなさるつもりですか」
ユズルは質問を投げ掛ける。所詮、こんなのは形だけだ。
別れは突然で、不可抗力だったという。だとすれば、目の前の男は必ずや母のことを連れ戻すのだろう。そんな根拠のない確信があったからだ。
(たとえ、どんな手を使ってでも)
有無を言わさず奪っていくんだろうな。
(そしたら、きっと……)
自分だけの母さんじゃなくなるんだろうな。
でも、愛し合った二人の優しい結末だ。こんなにも喜ばしいことはない。
ほんの少しだけ腹立たしかった。あれほど母が報われることを願っていたのに、いざとなると認めがたいのは、子どもの我が儘染みた独占欲と、変わってしまうという寂しさ。どうしようもなく叫んでしまいたくなる情動に、目を瞑って見ないふりをした。
ぐっと奥歯を噛みしめる。ぎゅっと指先を握り込む。
そうして真っすぐ正面を向いて。
「アーシェングロットさん、――母を、よろしくお願いしますね」
あの人を幸せにしてあげてください、とユズルは願った。
縋るような声は他人行儀だった。肩張った態度もおよそ身内に対するものではなく、親と子と言うにしてもひどく味気なく、ひどく歪なものだったけれど。
そのくらいでちょうどいいのかもしれない。
今からでも遅くない。知っていけばいい。そうすればきっと、自分たちの関係だって楽しいものになるはずだ。
ぼやけていく視界。緩んでいく目頭の栓。男が慌てたように席を立ったのを涙の向こう側に収めて、声を上げてユズルは笑った。