優しい世界を見てからにしよう


横殴りの雨が顔を殴りつける。髪の毛が頬に張り付いて煩わしかった。朧げな記憶を頼りにたどり着いたこの場所に、一年前の面影は残っていなかった。倒壊した建物は全て取り壊され、新しく立て直された建物が周囲に立ち並んでいる。工事途中の足場や壁をすり抜けてあの場所を目指す。記憶の箱を開けるための最後の鍵になる目的地へ。
私が見つかったあの場所へ。


不思議なことに、そこだけは手つかずのまま残っていた。一年前に自分が居た場所に立つ。見下ろす先には誰もいない。頭の中にある記憶が重なり、一年前同じ場所に人が倒れているのを思い出した。暗い髪の男の人。赤い瞳を持った人。ニュースでよく見たゼファーという名のヒーローのこと。

頭がずきずきと痛み、ぎこちない動きで抑える。空っぽだった頭に色々な記憶が流れ込んでくる。この目で見た記憶が蘇る。すぐ近くで怒鳴る声がして、遠くから悲鳴が聞こえて、子供の泣き叫ぶ声がして、強い風が吹いて、それから。視界が一瞬白み気付けばその場に崩れるように膝をついていた。勢いがよかったせいか膝がじわじわと熱い。雨に濡れた地面に赤い血が滲んだ。その赤が流れていくのを目で追いかける。一年前の、あの日のように。

視界が全て白に染まり、恐ろしくなって目を閉じる。聞き覚えのある静かな声が聞こえた。「卯依」誰かが私の名前を呼んでいる。女の人の声だった。少しずつ思い出していく。揺れる白い髪、細い指とその手にある綺麗な花。何度も見ていた、写真の女性。穏やかな声が薄れていき、

「はじめまして、実操卯依」

悪魔の囁きのような声が、耳元で聞こえた。
私は全てを思い出した。






歩くたびに足元から音がする。これ以上ないくらい水分を吸った靴の中で、足は感覚を無くしていた。雨に打たれて体は冷えているはずなのによく分からない。肩に落ちた大粒の滴が音を立てて跳ね返り頬に当たる。

行くあてもなく道を進む。頭の中はぐちゃぐちゃだった。母の倒れる姿。自分を庇いながら戦うゼファー。それから、黒い服を着た赤目の男。処理しきれない記憶の波とあの日聞いた悲鳴が頭に響き続ける。

どん、と半身になにかがぶつかり顔から倒れる。頬が地面に擦れて痛い。「うわっ」随分上から男の声が聞こえた。「最悪だ、服が濡れた」男はそう言うと私の横を通り過ぎて足早に去っていった。手も一緒に擦りむいたのかヒリヒリする。全部気のせいだと言い聞かせて立ち上がる。膝の血はいつの間にか止まっていた。

大勢の人とすれ違う。視線がいくつも向けられて、逸らされて、ぼそぼそと囁く声が聞こえて……。

気付けば視線から逃げるように、暗い路地にしゃがみこんで膝を抱えていた。冷たい壁に背中をつけたとき初めて、カバンが無いことに気付いた。多分さっきの事故現場に忘れたんだ。でも、もうどうでもいい。なにもかもどうでもよくなって、鼻を啜って膝に額を押し付ける。

このままどこか遠くへ行けたらいいのに。母のところでもいい。とにかく遠くへ行きたい、雨の降らない暖かい場所へ。ぐちゃぐちゃにこんがらがった頭が楽になるところへ。溢れかえりそうになっている、暗く恐ろしい感情から解放されるような世界へ、

消えてしまえたらいいのに。

「実操卯依か」

ひゅ、と息を呑む音が喉から聞こえた。体が強張って、それからがくがくと震え始める。自分の体なのに上手く制御が出来なかった。聞いたことないぐらい低い声がすぐそこから聞こえる。膝から顔を浮かせ、視線だけそちらへ向ける。さっきまで誰もいなかった路地に二本の太い足が立っているのが見えた。

それ以上顔を上げない私に、もう一度同じことをそいつは聞いてきた。どうしよう、どうしよう。逃げないと。でもどこへ逃げたらいいのか分からない。だけど行かなきゃ、“個性”が。“あの人”が必死で守ってくれた“個性”が。

「……話は出来るようになったと聞いたんだがな」

すぐ傍にしゃがみこんだ気配がして目を強く瞑る。バサっと頭になにかを掛けられ、今度こそ小さく悲鳴が出た。

わしゃわしゃとそのまま頭を拭かれる。大きな両手が頭を包むようにして動いている。いつの間にか開いた目はぱちぱちと意味もなく開閉を繰り返していた。青いタオルが視界の両端を踊っている。恐る恐る顔を上げると赤い髪をした男の人とバッチリ目があった。

「!」

すぐに顔を伏せた私に一瞬手を止めた男の人は、何も言わずに動きを再開する。

……燃えてる。
…………燃えてる!

「おーい、エンデヴァー!」
「こっちだ」

もうひとりの男の人の声が聞こえて自然と体が強ばる。エンデヴァー。初めて聞く名前だ。ゼファーにちょっとだけ響きが似てる。確か、ヒーロー名……? 格好も一般人とは違うし、この人もヒーローなのだろうか。悪い人、じゃないのかな。ゆっくりと視線を持ち上げる。エンデヴァーと呼ばれた男の人は自分の手元を見ていて視線が合うことはなかった。

「……」
「……」

すごく怖い顔……。

「保護したことを知らせろ。ヒーローネットワークと警察、それと施設もだ」
「了解です。施設へ送るなら俺が」

施設へ送るという言葉を聞いて、思わず肩が跳ねる。膝を抱える手に力を込める。自分の濡れた靴をじっと見ていると、怖い顔の人が「いや」と言った。

「まずは病院だ。怪我をしている」

怖い顔の人は頭にかかっていたタオルを手に立ち上がる。さっきまでびしょびしょだった髪は随分乾いていた。

「立てるか」

声をかけられ、ゆっくり立ち上がる。体力が尽きたせいか体があちこち痛むからか、ふらついてビルの壁に手をつく。手のひらの傷を押してしまいうめき声が出た。

それを見て、後からやってきた男の人が大きいタオルで私の体を包む。「もう大丈夫だからね」と声をかけられた。

「行くぞ」

男の人がそのまま私の体をゆっくり抱え上げる。膝の傷に触らないように横向きに抱っこされた。顔が燃えている男の人はさっさと歩いて行ってしまい路地を出ていく。私も運ばれるまま路地を出て、初めて明るい所でヒーローの姿を見た。明るい空から光が降り注いでヒーローを照らしていた。空気に揺れて赤い炎が大きく動いているのをじっと見つめる。ヒーローの後を追ってしばらく歩いていると、黒い車が目の前に止まった。降りてきた運転手の手には私のリュックがあった。

扉を開けられ、私は後ろの座席にゆっくりと降ろされる。扉が閉まってからタオルの端を握っていた手で窓枠を握って外を見た。窓が閉まっているから外の声は聞こえない。ヒーローと運転手が会話しているのをじっと観察する。

運転手のおじさんが運転席へ戻ってくる。私を運んでくれた男の人は助手席に乗って振り返った。「病院へ行って、怪我を診てもらおうね」笑顔で言われた言葉に少しだけ顔を伏せる。動き始めた車の中で、私はやっぱりヒーローが気になって顔を外へ向けた。

怖い顔をしたヒーローはしばらくこっちを見ていたけれど、すぐに背中を向けてしまった。車が道路を曲がって姿が見えなくなる。もう見えないのに私は窓から離れる事ができずに居た。炎のヒーロー、エンデヴァー。心の中で何度も繰り返している内に、ふと気付く。

(……雨、止んでる。)