2
「エンデヴァー、また居ますよ。あの子」
サイドキックの言葉を聞いて顔を横へ向けると、柱に隠れる白い何かが目に付いた。俺は深くため息を吐きたくなるのを堪え、その柱へ近付いていく。そっと顔を覗かせた子供が俺の存在に気付くと慌てたように逃げ出す。その襟を掴み引き寄せると「ぐえっ」と潰れた蛙のような声を出して子供は大人しくなった。
「何度言えば分かる。施設を抜け出して来るな」
「……」
「聞いているのか」
「聞こえない」
後ろでサイドキックが吹き出す音が聞こえる。自然と表情が険しくなる俺に視線も向けず、子供はぼうっと関係のない方向を見ていた。その瞳の色には覚えがあった。
長くサイドキック契約をしていたヒーロー、ゼファー。こいつはその隠し子だった。
子供の存在も、そもそも結婚していることさえ初耳だった。
ゼファーが死亡した事故現場で保護されたという子供には身寄りもなく、今は施設で暮らしているという。
白い髪に赤い瞳。どうやらゼファーの“個性”を発現させたらしい子供は、初めて逃げ出したところを保護してからというもの、何度もこうして俺の元へ来るようになった。かといって何かを言うわけでもなくするわけでもなく、物陰からじっとこちらを観察しているだけだ。
「一体何がしたいんだ、貴様は」
こうして問いただしても何も答えない。苛々が募り襟首から手を離す。子供はじっと俺を見上げて何を言うわけでもなくつっ立っている。
「俺は忙しい。手を煩わせるな」
「わずわわせてない」
舌足らずの子供に今度こそため息をつく。通りかかったヒーローが俺たちのやり取りを見ていたのか、笑みを堪えた表情で近付いてくる。施設へ届けるという男の提案を受け入れ、パトロールへ戻るために背を向ける。びしびしと向けられる視線を感じて振り返ると、赤い瞳がまっすぐこちらに向けられていた。
あの瞳を、俺はよく知っていた。
「……また来たのか」
「ちゃんと書き置きしてきた」
「そういう問題ではないと何度言えば分かる」
無表情のまま事務所のソファでパンを食べている子供を見下ろす。すぐ傍ではサイドキックが笑みを浮かべて子供にジュースを渡していた。何を餌付けしているんだお前たちは。
「まあまあ、施設の方には連絡入れときましたから」
この子供がゼファーの隠し子だということは誰も知らない。俺が知っているのはヒーロー公安委員会の会長から直接伝えられたからだ。初めて子供を保護して数日が経った頃、再び施設を抜け出て俺を訪ねたこいつを送り届けたあと、すぐに連絡が来た。
―――あの子がゼファーのことを知りたいと言ってくることがあれば、話してあげて。あなたは、彼をよく知っているでしょう。
子供も結婚のことも知らされていなかった俺が、奴の子供に何を言えるだろうか。
「卯依ちゃん、おにぎりもあるけど食べる?」
「食べる」
「ちっちゃいのによく食べるね〜」
―――そういえば、ゼファーも細身の割に大食らいだったな。そんなところも遺伝するものなのか? と腕を組んで子供を見下ろす。子供は視線を受けて居心地が悪そうに足を揺らした。
それから一年を過ぎた頃、ある日を境に子供の姿を見ることが無くなり、俺が視線をあちこちへ向けているのを見てサイドキックは笑いながら言った。
「噂で聞きましたけど、ヒーローと暮らすことになって施設を出たらしいですよ」
「……どのヒーローだ」
「確か、オールマイトのサイドキックだったような……」
ぴく、とこめかみが反応する。
確か、子供を事故現場で保護したのが奴だったか。
「……」
そもそもゼファーが事故死ということに俺は納得がいかない。奴の“個性”をよく知っている。敵の攻撃を受けたわけでもなく、ただの災害現場で命を落とすような男ではない。この件を警察や公安に問いただしてもはぐらかされるだけでまともな回答は得られなかった。奴が死んだ場所で、その子供が保護されたことは偶然じゃないだろう。かといって子供に真相を問うわけにもいかずにいた。
ゼファーの子供は、何故俺に会いに来ていたのか。ゼファーのことを知りたかったのか、何か話したいことがあったのか。結局分からないまま時間だけが過ぎていく。
「……」
その子供の姿を見たのは随分久しぶりのことだった。気付けばゼファーの死から四年という長い月日が経過していた。以前のようにこそこそと隠れる様子はなく、事務所前のガードレールに寄りかかり、ぼうっと空を見上げている。その姿は父親によく似ていた。奴もよくそうして空を見上げて、俺や同僚が戻ってくるのを待っていた。
気配に気付いたのか子供が振り返る。以前とは違い、髪は丁寧に梳かされ飾りが着けられ、小奇麗な服を着ていた。どうやらこいつを引き取ったというヒーローは身だしなみに気を使っているらしい。以前の施設暮らしの頃よりは顔色も良くなっている。事故から時間が経ったこともあるだろうが、随分健康そうになった。
「どうも」
「……また逃げ出してきたのか」
「違うよ。ちゃんと後見人の許可を取った」
無表情のまま淡々と答える子供の顔立ちは、父親には一切似ていない。唯一の共通点である瞳の色は今日も変わらず爛々としている。
「何の用だ」
子供は言いづらそうに視線を俺から外し、再び空を見上げた。
「ずっと言いたくて、言えなかったことがあるんだけど」
俺は黙って言葉の続きを待つ。ゼファーのことを、こいつに話す時が来たのだと思った。何を知りたがるだろうか。奴の “個性”のことか、奴の生い立ちか。俺が話せることはそう多くはない。腕を組んでいる俺をちらりと一瞥して、子供は口を開いた。
「三年前、救けてくれてありがとう」
正面を向いたままの子供の横顔を見ながら、俺は一瞬言葉を失った。言い終えた子供は重い荷を降ろしたように分かりやすく肩の力を抜いてガードレールから離れる。なにも言わない俺を見上げて、すっきりした面持ちで続けた。
「あの時、見つけてくれてありがとう。エンデヴァー」
三年前に路地裏で見た、俺に怯えていた子供とは別人のようだった。その瞳に影はなく、頬や手に傷もない。
「……それを言いに、何度も施設を逃げ出していたのか」
「半分はね」
「半分?」
「あとの半分は、もういいの」
子供の発言の意味が分からずに目を細める。子供は萎縮するでもなく俺を見上げ続けている。
「それじゃあ、お仕事頑張って」
「……ああ。気をつけて帰れ」
「どうも」
終始笑みの一つも見せずに、子供は去っていった。風に吹かれ白い髪が空気に揺れる。突拍子のなさと醸し出す雰囲気が、ゼファーとの初対面を思い出させた。
その数ヵ月後、体のあちこちに生傷を作って歩く子供を見つけた。その場でしつこく問い質し、政府の“個性”訓練を受けていることを子供の口から聞かされる。そのときやっと、公安がやけにこいつを気にかけていた理由と、最終的にヒーローが引き取った理由を理解した。そして、それがもたらした結果に息を呑む。頬や額のガーゼ、手足に巻かれた包帯。
公安はこいつをヒーローにしたいのだ。
ゼファーの代わりにするために。
「このぐらいの傷、なんてことないよ」
―――こんな傷、なんてことないですよ
重なるようにゼファーの声を思い出す。
もしも生きていたら、お前はこの状況に何を言っただろう。俺の考えを真っ向から否定したお前なら、燈矢や焦凍の怪我を自分のことのように嘆き、俺に掴みかかって怒鳴ったお前なら……何を、
「エンデヴァー?」
―――なにをやってんだよ、エンデヴァー!!
不思議そうにする子供の視線に耐えられず、掴んだ小さな手を離す。赤い瞳からは目を逸らした。
「……気をつけて帰れ」
「……どうも」
訝しみつつ帰路につく子供を見送ることもせず、ただその場に立ち尽くす。俺が奴に何を言える。妻も友人の言葉も全て振り切って、結局は突き進むことしかしてこなかった自分が。その行いが生んだ結果を受け入れられずに、もう後戻りは出来ないと立ち止まることさえ出来ない自分が。
「ゼファー、お前なら、何を……」