月が奏でていた静寂


シンドバッドが煌帝国との交渉の準備を進めている間、ハルたちに出来ることは何もなかった。ただただ部屋に篭もり、日数が過ぎていったある日。太陽が海に沈み、月明かりによってシンドリアの町並みが照らされ始めた時間帯に、ふいにアラジンが口を開いた。シンドリアへ来てから食欲がない、と言っていた通り、元から細かった体がさらに痩せてしまっていた。


「ねえ、ハルさん」

医者による定期検診を終え、寝台に横になっていたハルが枕の上で顔を傾ける。アラジンはハルの横にぺたんと座り込み、覗き込むようにハルの顔を見ていた。

「どうしました、アラジン」
「あのね……」

眉を下げ、どこか悲しげな表情をするアラジンは、しばらく沈思してから力無く微笑んだ。

「―――久しぶりに、ハルさんの演奏を聞きたいなって思ったんだ。でも、お医者さんが安静にって言ってたもんね。ごめんよ、ハルさん」
「……いえ、順調に回復しているそうですし、大丈夫ですよ」

薄く笑って言ったハルに、アラジンは「本当に?」と首を傾げた。「ええ」と言ってハルが体を持ち上げる。それから音を立てずに寝台から降りると、部屋の隅に置かれていた荷物の袋から見覚えのある陶笛を取り出した。

再び寝台に戻ると、今度は大きな枕を背もたれに座り込む。

「どんな曲がいいですか」
「……ハルさんの好きな曲が聞いてみたいな」
「私の、好きな?」

驚いて目を丸めたハルが、アラジンの青い瞳をじっと見つめる。
アラジンはこくりと頷いて、ハルの隣に座った。

半身に子供特有の体温を感じながら、ハルは僅かに俯いた。それから陶笛の穴に指を添え、口元に運ぶ。いつだったか、自分の兄が教えてくれた故郷の曲を思い出しながら、静かに息を吹き込んだ。





故郷に伝わる曲や数回聞いただけの子守唄を弾いているうちに、アラジンはハルに寄りかかって眠っていた。用事を済ませて戻ってきたモルジアナも同じように寝台の上に丸まって眠っている。唯一アリババが寝台に腰掛け、うとうとと今にも閉じそうになっている目を開こうとしていた。

―――世が更けてきた。緑射塔には他の食客も暮らしている。演奏はもう止めておいた方がいいか。

ハルが陶笛をそっと寝台の隅に寄せる。演奏が止んだことでアリババの意識も多少覚醒したのか、寝台に乗り上げてからハルに寄りかかって眠るアラジンを抱える。モルジアナの隣にそっと横たえて寝かせると、アリババはあくびを零した。大きく開いた口を隠すこともない様子に、ハルが静かに笑む。


見られていることに気付いたアリババが気恥かしそうに小さく咳払いをする。それから寝台を降り、陶笛を預かると机の上へと置きに行った。

「演奏、誰に教わったんだ?」

眠る二人を起こさない程度の小さな声量で、アリババが問いかける。寝台の端に座るハル。その傍にある椅子に腰掛けて言ったアリババに、ハルは同じようにかすかな声で答えた。

「兄です」
「……亡くなったっていう、兄さんか」
「ええ。数年前に、戦争で」

ハルの言葉にアリババは表情を暗くして俯いた。バルバッドの悲劇を思い出しているのかもしれない。正確にはあれは国内での反乱、革命であって国家同士の戦争とは違うが。

「……剣を探してるって言ってたよな。それって、亡くなった兄さんに関係してるのか」
「はい。剣は兄が使っていたものです。墓から盗まれてしまったので、私が探しています」
「なんで、お前が……だって……」

明言せずともアリババが言いたいことを、ハルは察していた。この部屋にアラジンやモルジアナがいるからか、公言しないようにとハルが釘を刺しておいたからか、アリババはそれ以上を口にすることはない。

レームの皇子の剣が墓から盗まれた。確かに大問題だろう。
ただ、それをどうしてレームの皇女自ら捜索に出ているのか。騎士隊長としての任だとしても、ただ一人で探しているのは納得できなかった。

(護衛も部下も引き連れず、ただ一人で……。)

それも実父である皇帝にさえ伝えずに、国民にも表向き皇女は療養していると隠してまで。

「……」

―――俺はハルのことを、何も知らない。

バルバッドで身分を明かされたあの日、ハルのことを全部分かった気でいた。
でも、それは自惚れだったんだな……。

「俺はさ、ハル。全部話してくれなんて、言わねぇよ。誰にだって事情があるから」
「……」
「でも、バルバッドで、お前は俺のために戦ってくれた。主人の命令を無視してまで、バルバッドに残ってくれた。こんなにボロボロになるまで、俺たちのために……」

アリババはぐっと顔をしかめて、それから僅かに下げていた顔を上げた。
月明かりだけが部屋に差し込む中、アリババのオレンジ色の瞳がひかる。

「俺だって、友達としてお前の力になりたいんだ。こんな俺でも、出来ることがあるなら……なんでもしてやりてぇって思ってる」
「アリババ……」
「だから……っ……ああ! もう、だから!」

感情を抑えきれない様子で、アリババは前のめりになって叫んだ。その声の大きさにハルがびくりと肩を跳ね上げる。

アリババが見てきたハルはいつだって完璧で、冷静で、正しさの中に生きていた。
躊躇いもなく人を助けに行く姿。犯罪を許容しない高潔さ。弱者に対する分け隔てない優しさ。

その在り方に、アリババは尊敬を抱いていた。同時にハルを恐ろしくも思っていた。
あまりにも正しすぎるその在り方に、自分とは違う人間なのだと、そう決め付けていた。

けれど、バルバッドで……カシムとの会話で、その「違い」を考えるようになって……。
自分はハルの上辺しか見ていなかったのではないかと、考えるようになっていた。

―――見えにくいだけでハルの弱い部分もちゃんとあって、俺は自分のことで精一杯だったから、気付けなかっただけだった。

「あんま……一人で、抱え込むなよ」

意識して声を抑えて言ったアリババに、ハルは目を見開いて黙り込む。バルバッドで、ジュダルと戦うことを迷っている姿、そして他人のためにその迷いを断ち切って剣を構えたハルを思い出して、拳を握る。失ったのはアリババやアラジンだけではないのだ。

「お前の支えになりたいって、俺も思ってるから」

眠っていたアラジンが「うーん」と唸り、寝返りを打った。起こしてしまったのかと身を固める二人の視線の先で、アラジンはむにゃむにゃと深い眠りについている。そっと胸をなで下ろしてから、ハルはアリババの固く握られた拳に手を伸ばす。

これでもかと強く握られる拳は、バルバッドでよく見たものだった。
今もなお残る小さな傷に触れ、ハルは「ありがとう」と返した。

手の下で、アリババは手首を返しハルの手を握り返す。
それは剣を振り回す騎士のものとは思えないほど、柔らかい女の手をしていた。