きみのやさしいを咀嚼する
それはアリババとモルジアナの結婚式が終わり、数ヶ月が経った頃のことだ。
金属器やマギシステムが消えた世界となり、国の立て直しの為にレームの帝都、レマーノに各国の長や補佐が集結していた。国境、戸籍、法律。解決しなければならない多くの問題を抱え、会議に出席している者はほとんどが青白い顔と濃い隈を携えていた。睡眠時間の不足は人間の思考力や判断力を奪う。そんな状況の中で起こった事件の一つが「練白龍、徹夜続きの公開プロポーズ」である。
煌帝国、レーム帝国。それぞれの皇帝は勿論会議に参加していた。白龍とハルはそれぞれの補佐としてその傍らに居たのだが、徹夜が続いたことで普段の冷静さと理性を欠いた白龍が、椅子の横を通り過ぎようとしたハルの白い手を掴んだ。睡眠不足による血色の悪い表情とぼうっとした瞳の白龍がハルを見上げる。周囲は「いい案でも思い浮かんだのだろうか」と勘違いし、全員が白龍の言葉を待った。
「おれとけっこんしてください」
全員が驚きで言葉を失っている中、同じく石のように固まったハルの腕を引いて引き寄せると、みぞおちへと額を押し付ける。
「おねがいですからあ」
白龍が酷く酔っ払ったときにハルに抱きついて離れないことはあったが、素面の状態でなることは初めてのことだった。末っ子気質の白龍の甘えに、長女であるハルはぎこちない動きで白龍の背をポンポンと叩いた。二人が両思いでありながらも、互いの国が長く敵対していたことから一緒になれなかったことを知っている者は、それをニマニマとした表情で見守る。これがきっかけで周囲の後押しもあり、二人は幼い頃の約束を果たすことができたのだった。(当時のことを白龍は覚えておらず、ティトスの魔法で見せられた時に羞恥で転げ回ることになる)
午前の執務を終え、白龍は足早にある場所へと向かっていた。格子状の窓から差し込む日差しがその道を照らしている。数分もせずに辿りついたのは庭園だ。白龍が小さい頃に、兄姉達と穏やかな時間を過ごした場所だった。
「―――」
女性特有の柔らかく、穏やかな声が微かに白龍の耳に届く。それに続くように聞こえた子供の高い声に、白龍は自然と笑みを浮かべていた。子供といってもその齢はまだ二つにも満たない。
大きな石に腰掛け、膝の上に息子を座らせて話しかける妻の姿を、白龍は静かに見つめる。暖かい日差しと爽やかな風が吹き、乱れた息子の髪を指で撫で付ける動きに浅く息を吐いた。
小さな音に気付いたハルが振り向き、白龍の姿を認めると表情を和らげた。白龍もつられるように照れた笑みをみせて二人に歩み寄る。父が来たことに気付いた息子が嬉しさを表すように膝の上で暴れだす。白龍は掬うように息子を抱えるとハルのすぐ隣に腰掛けた。膝が触れ合う距離で視線を合わせる。その瞳の熱は結婚当初から温度が変わっていないようだった。
「子供の成長はあっという間ですね」
「ええ、本当に。そのうちハルのように騎士になると言い出しそうです」
「その時は、私が立派な騎士にしてみせますとも」
「お手柔らかにお願いします。俺の息子だから、泣き虫になるかもしれない」
ふわふわの小さな体をそっと胸に寄せ、背に手を当てる。命の温かさや尊さ……白龍の胸中にじわじわと感情が滲み出す。腕の中で楽しそうにはしゃいでいる小さな命に、白龍はそっと目を伏せた。固く閉じた目蓋の裏に浮かぶ、自分が送ってきた人生を辿っていく。
―――多くの命を奪い、犠牲にし、利用し、踏み躙って、そうしてまで歩んだ道。恨みを飲み下すことが出来ずに居た過去の自分。運命を呪ったあの日の血の味を忘れるはずがない。
―――こんなに幸福でいいのだろうかと何度も思った。何度も考え口にするたびに、ハルは俺を抱きしめてくれた。この世から罪や恨みが完全に消えることはないこと、それらを抱えて生きていくしかないことも、騎士である彼女はずっと前から知っていた。彼女自身多くの罪を背負っていた。多くの傷を抱えて生きていた。
―――自分たちに出来ることを、ひとつずつやっていくしかありません。国のため、誰かのため……きっと、それが自分のためにもなる。残された私達は、辛くても寂しくても、そうやって生きていくしかないんです。
熱い何かが頬を伝っていく。目尻に溜まった雫を冷たい指が掬った。優しい香りが鼻腔をくすぐり、白龍は空いた手でハルの頭を抱えるように抱き込む。小さな命と低い体温。庭園の一角に集まるひとつの家族。そのどれもが幸福の形をしていた。
その形が消えてしまわないように必死だった。