未来に居たはずの君に


謝肉宴から数日が経過した。穏やかな時間が静かに過ぎていき、煌帝国の使節団を待っていたある夜、シンドバッドは緑射塔の一室にいた。

ここは他に居住者がいない区画で衛兵を除けば人の往来はほとんどない。ジャーファルや書類仕事から逃れこっそり酒を飲むのに利用している秘密の場所の一つだった。いつもは一人で過ごすために誰にも教えない場所で、シンドバッドは窓枠に寄りかかり外を見つめている。
彼の傍には、酒瓶と盃がふたつ並べられていた。

月明りだけが差す部屋で、シンドバッドは遠い過去を思い出すように目を閉じる。







リジルの名を初めて聞いたのは、騎士王の息子ミストラスと共にササン王国を出た直後のことだった。騎士の教義により国を出ることを許されていなかったミストラスは、初めて見る外の世界に目を輝かせていた。次の目的地が小国であることにミストラスは肩を落としていたが、彼が大国に行くことを望んでいたのには理由があった。

「リジル?」
「はい。俺の友人です!」

アルテミュラへの旅の道中、ミストラスはリジルのことを話してくれた。

数年前レーム皇帝がササン王国に来訪した際、皇子であるリジルも共にいたのだという。年も近く、初めて顔を合わせる「自分以外の皇子/王子」だったこともあり、すぐに親しくなったそうだ。

「外の世界に出られたことを、早くあいつに教えてやりたくて」



ミストラスがリジルと数年振りに再会したのは、アルテミュラとの商談を終えレームに戻った直後だった。パルテビア皇女セレンディーネと侍女二人。そしてドラコーンがシンドリア商会に身を寄せた翌日のこと。
その日は、青ざめたジャーファルがシンドバッドをたたき起こしたことから始まった。
商会の周囲を銀の甲冑を着た騎士たちが包囲していると報告する商会の部下の言葉に、震えあがったのはパルテビアから逃れてきた四人だ。

セレンディーネは不法にレームへの国境を越えた皇女だ。
ドラコーンは食糧を得るためにレームの隊商を襲っていた。
外敵の捕縛や害獣の掃討を担うのは帝国騎士団の仕事であった。

シンドバッドが四人を奥に下がらせるが、帝国騎士は断りもなく建物の中に入ってきた。先頭を歩く男の眼差しは鋭く、視線だけで身を貫かれそうな敵意が込められている。

「我々はレーム郊外で隊商を襲った魔物を探している」
「そうか。……悪いが、心当たりはないな」
「―――昨夜、この建物に魔物が入っていくのを目撃したものがいるんだ。中を改めさせてもらおう」
「っ……勝手に」

行く手を阻もうと立ちはだかったジャーファルを見下ろし、男は「公務妨害で牢に入れられたいのか?」と冷たく言い捨てた。ジャーファルの肩を部屋の端へ押しやった男に数名の騎士が続く。
シンドバッドは思考を駆け巡らせてこの場を切り抜ける手段を探していた。四人をこの商館に置くと決めたばかりだ。
―――なにより、背負って進むと決めた仲間を、レーム帝国に渡すわけにはいかない!! 険しい表情で口を開いたシンドバッドだったが、張り詰めた緊張の糸を断ち切ったのは彼ではなかった。

「ミストラス?」

部屋の隅でヴィッテルとあたふたしていたミストラスが「え?」と目を見開く。
いつのまにか部屋中の視線がある一人の騎士に集中していた。その騎士は列を離れ、ぽかんと口を開けているミストラスに近付いていく。その正面で立ち止まると、騎士はかぽりと頭の兜を外した。兜から流れるように金の髪が落ちる。
優しい草色の瞳は棘の一つも含まずに、まっすぐにミストラスに向けられていた。

「お前、こんなところでなにしてるんだ?」
「―――リジル!?」








シンドバッドは正面のソファに座る一人の男を見つめる。

ナーポリアはレームの主要都市のひとつで、商会の周辺に多くの市民が行き交う土地だった。魔物を捕らえる際に市民の犠牲を出さないために、騎士団は厳重な体制が敷いていたのだが……。この男の一言でその包囲は解かれ、シンドリア商会には数名の騎士を残すのみとなっていた。

首から下を覆う鋼鉄の鎧。
唯一外気に晒されている頭部に自然と視線が向いた。

金糸を編み込んだような髪は照り輝いているように美しく、その顔立ちは滅多に見られないほど整っている。宝石のような青磁の瞳は現在、隣に腰掛けているミストラスにのみ向けられていた。再会がよほど嬉しかったのだろう。
楽しそうに微笑み、陶器のような白い肌を僅かに赤く染めた表情は部屋中の男たちが思わず息を呑むほど艶のあるものだったが、すぐに冷や水をかけられたように冷静になった。

光り輝いているようにも見えるこのとんでもない美人はレーム帝国の第一皇子。
リジル・ユリウス・カルアデス。

―――皇子。つまり男である。


ミストラスはリジルの美貌に慣れているのか周囲の複雑な視線に気づかないまま談笑を続けている。アルテミュラでは綺麗な女性に話しかけられるだけで赤面していたというのに。

「正騎士としての任務か」
「おう。親父に認めてもらったんだ。世界を見てこいって……」
「―――よかったな、ミストラス」

リジルの言葉に、ミストラスは潤んだ瞳を誤魔化すようにはにかんでから、声が震えそうになるのを誤魔化すように続けた。

「お前は? 今は従騎士なんだよな? 叙任の儀は?」
「今年中ってところかな。遍歴の旅に行けるとしても、あと何年も先のことになる」
「……そっか」

僅かに肩を落としたミストラスを見て、リジルが励ますように肩を叩いた。
その背後から、今まで沈黙を保っていた騎士のひとりが声をかける。

「殿下」
「……分かってる」

楽しげだった表情は深いため息をともに消え失せ、リジルはまっすぐに正面に座るシンドバッドを見た。

(美人の無表情は迫力があるな)

「任務は遂行しなければならない。隊商を襲った魔物がここにいることは分かってる。引き渡すか、もしくは―――」
「はァ!?」

嚙みつくように立ち上がったのはミストラスだった。

「見逃してくれるんじゃないのかよ!」
「お前がいたから、大ごとにしないよう騎士たちを帰らせたんだ。分かってるのか? レームの市民を襲う魔物を匿っている商会に、ササン王国の王子が騎士王の命令を受けて身を置いているなんて、父上や元老院に知られたら外交問題になりかねないんだぞ!」

リジルの言葉にミストラスはみるみる萎縮してしまい、眉尻を下げていった。声を荒げたことを悔やんだのか、リジルは目元を隠して息を吐く。それを見守っていたシンドバッドは、極めて落ち着いた様子で口を開いた。

「―――話の続きを聞かせてくれないか。引き渡すか、もしくは?」
「納得のいく説明をしてほしい」
「……それが出来たら?」
「俺から騎士隊長、団長、この町の刑吏隊長に話をつけて、この一件を終わらせる」

シンドバッドはまっすぐにリジルの瞳を見つめ返した。この提案はあまりにも寛大すぎる申し出だった。なにか裏があるのではないかとシンドバッドに目くばせをするジャーファルだったが、シンドバッドは熟考することもなく「分かった」と受け入れるのだった。