06


抱えた膝に額をつけるようにして俯く国広は、今剣と同じようにずぶぬれだった。

国広も血の匂いを落とそうとしたのだろうか。
私が、怖がらないように。

不安そうにこちらを見上げる今剣に新しいタオルを持ってきてほしいと頼む。小さな背中を見送ってから国広に向かって一歩足を進めた。

ゆっくりと近付く私に気付いたのか、国広の手がぴくりと動く。けれど顔は上げなかった。少し汚れた布からは水が滴り落ちている。

今日は暖かいけれど、濡れた衣服のまま日陰に居たら体が冷えてしまうだろう。
すぐ傍にしゃがみ、持っていたタオルでそっと国広を包んだ。

「怖いんだろう」

ぼそっと聞こえた国広の声は少し低くて小さいものだった。水分を拭き取るようにタオルを押し当てる。

怖い。

そうだ。怖いんだ。私の命令で二人を戦わせることが。私のせいで二人が傷付くことが。顔も知らない誰かが悲しむことが。

―――いつか私が失う側になることが。

やっとできた繋がりを失い独りになってしまうことが、怖い。けれど、それは私の問題だ。
私の心が弱いから、ただそれだけ。
二人は何も悪くない。なのに、傷付けてしまった。

あなたたちが怖いわけじゃない。そう言葉にする前に国広が口を開いた。

「俺達は、どうすればいい」
「この身は敵を斬ることしかできない」
「主に見捨てられては」

「―――ごめんね」

国広の言葉を遮って謝る。少し震えていた国広の声は泣いているようだった。ぎゅっと膝を抱える手に力が入るのが見て分かる。私は傷付ける言葉ばっかり口にしている。だけど黙っていたら分からない。私たちは知り合ったばかりなのだから尚更だ。

「国広や今剣のことを怖いと思ったんじゃない」
「……」
「ただ、二人に戦うことを強制してる自分が……この状況が恐ろしくなっただけ」

ゆっくりと国広が顔をあげる。タオルからそっと手を離して向き合った。国広は目を少し細めて訝しげにこちらを見ている。

「誰かを傷付けたり、奪ったり。とても恐ろしいことを私はあなたたちにさせてる。それが私には受け入れられない。たとえ歴史を守るっていう大義名分があったとしても」

今度は私が俯いてしまった。どうして審神者になんてなってしまったのだろう。私よりもっと、よっぽど相応しい人がいるだろうに。

「ごめんね、こんなのが主で」

私は抱えるものが無さすぎる。だから覚悟が出来ない。強い意思すら持てない。私はからっぽで弱い人間だから。

「自分だけ安全な場所でただ帰りを待って。あなたたちばかり危険な目にあわせて、たくさんのものを背負わせて……」

どうしようもない。本当に申し訳なくなる。情けない。

無くなった記憶が急に戻ったりしないかな。私には家族が居て、守るべき大切な過去があって。そう分かったら少しは審神者らしくなれるかもしれない。歴史を守るために、と強い覚悟を持てるかもしれない。

国広と今剣にとってもそれがいい。どうして記憶がないの。なんで私にはなにもないの。

帰りたい、と言いたかった。帰る場所なんてないのに。その事実がまた悲しくて目を伏せた。




「俺たちが敵を斬るのは、それが刀剣男士としての使命だからだ。無理やり戦わされている訳じゃない」

国広の声はもう震えていなかった。うん、と小さく返す。けれど心は軽くならない。私がさせていることに変わりはなかった。

「俺たちは自分の意思で、あんたの呼びかけに応じた。歴史を守りたいという思いが無ければここには居ない」

国広の思いがけない言葉に顔をあげる。てっきり強制的に神気を注いで起こしていると思っていた。青のような緑のような、澄んだ光を映す瞳と視線が合う。

「付喪神は人の強い思いや、積み重ねられてきた歴史があるからこそ存在している。俺たちはそれを守りたい」

国広の言葉に再び俯いた。積み重ねられてきた歴史。付喪神は長い年月を経た道具に神様や魂が宿ったもの。きっと国広と今剣も、私には想像もできないほど長い時間を生きてきたのだろう。

積み重ねられたものがあるから存在する。それは多分人も同じだ。この世に生まれて心を育て、出会いと別れを繰り返し生きていく。その中で自分という存在を確立していく。なら、強い思いも願いもない。大切な過去も無い私は存在してると言っていいのかな。あってないようなものじゃないだろうか。

積み重ねてきたものが多ければ多いほど人も付喪神も強く在れるのだろうか。国広は刀だけど私なんかよりよっぽど人間らしい。

「記憶が無いからといって、なにもないわけじゃない」

国広が腰をあげた。私も一緒に立ち上がるが、顔はあげられないままだった。

「俺たちに刀工が居るようにあんたにも親が居るはずだ。兄弟や近しい者や大切な場所があったかもしれない」
「……私は何も覚えてないんだよ?」
「思い出せないだけだろう」
「……」
「俺がもし記憶を無くしたとしても、山姥切国広という刀は無くならない。これまでの歴史が消えることもない」

つまり、私は何も持っていない訳ではないと。国広は言いたいのだろうか。そういえば手入れ部屋で国広をぶん殴ったときに、私はなにも持ってないって言ったっけ。あるのはこの体と国広だけだと。

「きっとどこかに、あんたの守りたいと願うものはあるはずだ」

少しも思い出せない、あるかないかさえ分からないものを理由にしていいんだろうか。それを守るために戦うなんて。そんな覚悟薄っぺらくはないだろうか。ゆっくりと顔をあげた。濡れたタオルの下で国広はじっと私を見下ろしている。

「俺たちは審神者が居なければ戦えない。力を貸して欲しい」

そう言って軽く頭を下げた国広に瞬いた。

「……それは、本当なら審神者が言うことなんだろうね」
「かもしれない。だが俺たちはこれでいい」

国広が顔をあげる。私は何も言わずにその目を見つめた。急に自信が沸くわけじゃない。心が強くなることもない。けど国広がそれでいいと言うのなら、初期刀がそう言ってくれるのなら。

「……俺に出来ることはなんでもする。血が怖いというのなら、帰還時はあんたの視界に映らないように努力しよう」
「ううん、いいの。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないときはちゃんと言ってくれ」

国広の言葉に口を噤む。初陣でぼろぼろになって帰ってきた国広が頭に浮かぶ。手入れ部屋で、先が見えないぐらい不安だった。唯一与えられた道は血に塗れていた。国広の問いに「大丈夫じゃない」と思わず本音を言ってしまった。

二回目は今剣を迎えた後だ。鳥居に手をついていた私に、国広が「大丈夫か」と聞いてきた。あの鳥居は私を知らない場所に連れてきて、国広達を危ない場所へ送ってしまう。こんなものがあるから私は、と恨めしくも思った。

思い返すと国広には心配をかけてばかりだ。

「分かった。ちゃんと言う。けど、国広が言ったことは本当に大丈夫だから」
「……そうか」

国広が目を閉じてほっとしたように肩をなでおろした。「へくしゅっ」と体を跳ねさせてくしゃみをした国広が目を見開いてわなないている。反射的に口に当てていた手の平を見下ろして震え始める。

「な、なんだ今のは」
「くしゃみ。体が冷えちゃったんだと思う。早く戻ろう?」

私の言葉に少し安心したように目元を緩めてから、国広は歩き始める。顔が隠れるぐらいタオルを積み重ねて持ってきてくれた今剣にお礼を言う。ふらふらとした足取りが見ていられなくて国広と二人で手分けして運んだ。





きっとどこかに守りたいと願うものがある。
この言葉にはこれから先、何度も心を支えられることになる。

挫けそうなとき、辛いとき、恐怖に足が竦んだとき。
真っ先に浮かぶのは初期刀の言葉だった。

彼らは人ではない。
決して同じではないはずなのに。
その心は真っ直ぐに私を揺らしてくる。

暖かく穏やかな晴天の日に、
私の人生は始まった。