涙の流域からたちのぼる鋭利


※ゴーティエ辺境伯の名前が登場


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ゴーティエの長子として生まれた伯父パルジファルは、紋章を有していなかった。数年後に生まれた弟にはゴーティエの小紋章があり、伯父は早々に廃嫡され家を出たという。

「……王家に仕える騎士になって大成するとは、誰も予想してなかっただろうな」
「シルヴァン、どうしたの」

自分と同じ赤髪を揺らし、ナマエが首を傾げる。机に広げられているのは兵法の入門書のようだ。かなり書き込まれたそれを見下ろしていると、シルヴァンの聞きたいことが分かったのか「ベレト先生に借りたの。すごく分かりやすいんだよ」とナマエが薄く微笑みながら口にした。

―――ベレト先生、ね。

数節前に青獅子の学級の担任になった凄腕の傭兵。詳細は不明だが紋章を持っているらしく、ハンネマン先生が躍起になって研究していると噂に聞いた。紋章に振り回され生きていくことが生まれながらに決定している自分と、紋章すら知らず傭兵として生きてきた先生。ほの暗い感情を抱くなという方が無理な話だ。

「シルヴァン?」
「……ん? 分からないところでもあったか?」
「ううん。それは大丈夫」

ナマエは授業の合間にも、こうして教本を手に勉学に励んでいた。それ以外の当番や鍛錬も、どんなことに対しても手を抜かずに取り組むその性質は、シルヴァンとは真逆に位置している。

イングリットなんかは「シルヴァンとナマエを足して二で割ればちょうど……いえ、ナマエにシルヴァンの要素が少しでも混ざるのは耐えられないわ。忘れて」と言っていた。イングリットはもう少し自分に手心を加えてもバチは当たらないと、シルヴァンは思う。

ナマエが元来生真面目な性質であったことは否定しないが、士官学校で数年振りに再会した従兄妹は、自分が知っている頃よりもずっと大人びて見えた。見た目だけが以前と変わらないことに違和感さえ抱く。

―――昔はもっと弱かったのにな。

初めてナマエを見たのは、ナマエが生まれたばかりの頃だ。自分も幼かったので、当時のことはよく覚えていない。ナマエの母親は王国貴族の令嬢で、四年前の一件で両親を失ったナマエは、士官学校を卒業したら爵位を継ぐ手筈になっている。現在のガラハッド家当主は確か、先代の当主である祖父だったろうか。かなりの高齢だった気がする。

あのビビリで弱虫なナマエが次のガラハッド伯爵だなんて、誰が想像できただろう。ナマエの両親も周囲の大人も、ナマエはいつか婿を取って爵位は夫が継ぐことになるだろうと考えていた。多分、ナマエもそうだ。

『泣き虫ナマエ』

最後にそうからかったのは何年前になるだろうか。

伯父達の葬儀でひとり立ち尽くすナマエの後ろ姿に、シルヴァンはどう声をかければいいか分からなかった。国王の死、友人の死、伯父の死。突然失ったものが大きすぎて、自分でも感情の整理がついていなかった。

イングリットは部屋に閉じこもって外に出てこないとガラテア伯から聞いた。
戻ってきたグレンの鎧を見て、フェリクスはロドリグ殿に殴りかかったと、フラルダリウスの騎士から聞かされた。
ナマエの両親の遺体はナマエに見せられる状態では無かったと、シルヴァンは自分の父親から聞かされた。

動かないシルヴァンの横を通り過ぎて、シルヴァンの父、マティアスがナマエに近付く。その手には伯父の剣が握られていた。伯父の死と共にゴーティエ家へと戻された神聖武器だ。

ナマエに声をかけたマティアスが何かを告げ、ナマエの手に剣を握らせる。小さな葉のような手が新雪のように柔らかいことをシルヴァンは知っていた。ナマエは怖いことがあると、近くの人間の手を掴むことで安心を得ようとしたから。

武器を握らない手に傷は無い。筋が良いのだから特訓に付き合えとフェリクスが凄んでも、ナマエは頑なに首を縦に振らなかった。マメも擦り傷も無いその手に、多くの血を吸ってきた剣が握らされる。

シルヴァンの頭に血が昇る。
ナマエが戦えるはずがないと、ナマエを知っている人間ならば誰でも分かることが、自分の父親には分からないのだと思った。

泣いてばかりいて、小さなことに怯えて、震えてばかりいて。
いつも何かを怖がっているようなやつが戦場に立てるはずがない。

自分の意見を聞いてもらえるなんて微塵も思っていないシルヴァンは、心の中でまくし立てる。ナマエは両親の代わりにはなれない。
たとえその身に紋章を有していたとしても。

マティアスの後に続くようにナマエが墓前に背を向け、歩き出す。ナマエはいつものように顔をくしゃくしゃにして泣いているのだろうと、シルヴァンは予想していた。かける言葉が見つからずとも、傍に居てやろうと心に決めて、ナマエの顔を見た。

ナマエは一切泣いていなかった。目元や鼻を赤くすることもなく、シルヴァンが見たこともないような無表情で、腕の中の剣を抱きしめている。

母親譲りの金の瞳が、薄暗い中で鋭く光っていた。

あれからずっと、ナマエの剣帯にはゴーティエ家に伝わる神聖武器がぶら下がっている。

新雪の手はシルヴァンの知らぬ間に踏み荒らされていた。