ここではなにもみえません
隣の席じゃないと、途端に話す機会は減った。朝練が終わって教室に入ったときに、挨拶をしてくれることはあったけれど、苗字さんも運動部のマネージャーだからか、俺よりあとに教室に来ることもある。隣の席だったときは、先に座っていた俺におはようと言ってくれたけれど、今ではそれもない。当然だ、わざわざ窓際の席に座る俺に声をかける必要はないんだから。
古典のノートを見せて欲しいと言われることも無くなった。隣の席じゃないから当たり前だけど、そもそも最近の苗字さんは授業中に眠らない。逆にノートを見せて欲しいと隣の席の女子に言われているのを見かけた。もともと成績は悪くなかった筈だけど、なにか心境の変化でもあったのだろうか。親に成績のことを言われたのかな。じっと苗字さんを見ていた俺の顔の前で、虎が手をぶんぶん振る。話は聞いてるってば、と顔に当たりそうな手から顔を遠ざけて言うと、虎は「最近変だぞ」と顔をしかめて言った。つられて俺の目も鋭くなる。
「揃ってしかめっ面してどうした」
両手にパンを抱えた夜久くんが隣の席に腰掛けて言った。夜久くんは、俺が石鹸の香りの制汗剤を使い始めてもなにも言わなかった。クロからなにか言われたのかな。探るような目で見る俺に夜久くんは何も言わない。
「ハァッ!?」
目の前で虎が突然大きな声を出す。俺と夜久くんが顔を歪めてそれを睨んでいると、虎が震えだす。不気味に思いつつ虎が視線をぶつける先を見ると、後ろの扉に見覚えのある男子生徒が一人立っていた。確かサッカー部の人だ。虎と同じクラスだっけ。名前は分からないや。緊張した顔をしたそいつに呼ばれて立ち上がったのが苗字さんで、俺はぎょっとする。目の前で告白だのリア充だのとのたうちまわる虎に、夜久くんが呆れていた。俺は教室を出て行く苗字さんの背をじっと見つめる。ちょうどすれ違うように教室に入ってきたクロと、その後ろにバレー部員がぞろぞろと集まってきたせいで、小さな体はすぐに見えなくなった。
「研磨?」
夜久くんが不思議そうに名前を呼んでくる。俺はクロたちから顔を戻して正面を向いた。小さなパンをもそもそと咀嚼して飲み込む。クロが何か言いたげに俺を見下ろすけど全部無視した。
「苗字さん、もう少し早くマネージャーに勧誘しときゃ良かったな」
クロの言葉に夜久くんが答える。
「そうだなー、野球部が羨ましいぜ」
虎は泣きながらパンを貪っていた。
ちょうど一年前の初夏、部活でマネージャーが欲しいという話題になり、俺は唯一よく話す女子だった苗字さんにその話をした。苗字さんは驚いて黙り込んで、俺は言わなければ良かったと後悔した。遠い廊下の角から俺たちを見守る虎の熱すぎる視線が鬱陶しい。苗字さんは小さな声で野球部のマネージャーに勧誘されてついさっき引き受けたのだと話した。少しも悪くないのに何度も謝る苗字さんに、俺は申し訳なくなって頭を下げた。
もう少し早く声をかけていれば、か。
最後のひとかけらを口に放りこむ。もしもあと数日早く声をかけていれば、苗字さんは野球部じゃなくてバレー部のマネージャーになっていたのだろうか。もともと帰宅部でバイトもしていなかった苗字さんは、多分野球部じゃなくても了承してくれた気がする。
けど、ゲームと違って現実ではやり直しなんて出来ない。もしもセーブポイントからやり直すことができるなら、きつい練習も先輩との諍いも全部我慢するから、一年前に戻りたいと思った。