ざらついた感傷


古典の時間にみんなが黒板に注目している中、そっと背もたれに深くよりかかり廊下側に目を向ける。古典の先生は高齢のおじいさんで、穏やかな声が子守唄のようだと話していた苗字さんの言葉が蘇る。だから苗字さんは古典の時間にしょっちゅう居眠りをしているし、その度に隣の席の俺にノートを見せて欲しいと頭を下げていた。ノートのお礼にと渡される、レモン味とりんご味の飴は何故か食べられずに自室の引き出しにしまっていた。家に遊びに来たクロが引き出しの中にある飴を勝手に食べて、俺は小学生の頃に間違ってクロがセーブデータを消した時以上に怒った。しばらく口を聞かなかった俺に、クロは「レモンそんな好きじゃねえじゃん」と口を尖らせて言った。

クロはりんご味の飴は残しておいてくれたけど、そうじゃないじゃん。ふたりして拗ねて口を聞かない俺に呆れた母親が話を聞いて、「高校生が飴の一つ二つで喧嘩しないの」と叱った。仲直りするまで晩御飯抜きなんて初めて言われた言葉に、ふたりして顔を見合わせる。

「隣の席の子に貰った飴だった」

謝罪の言葉を期待していた母が呆れたようにため息を吐いたけど、クロは目を丸くさせて納得したように「ああ」と呟いてから「悪かった」と頭を下げた。

母は意味が分からない、と言いたげに顔を歪めていたけれど、普段通りになった俺たちを見てほっと安心したようだった。

黙々と食事をする俺は一人で考える。俺だって意味が分からない。ただの飴にこんなに執着するなんて。レモン味は好きでも嫌いでもない。りんご味は好き。クロが部屋にあるお菓子を勝手に食べることはよくあること。いつもは呆れて代わりのお菓子を要求する俺が怒ったことに、クロはかなり動揺してた。俺だって自分のことなのに動揺してる。

布団に入って腕で顔を覆う。ゲームをしても、バレーボールに触ってもざわついた胸は落ち着かないし、引き出しに残った飴を食べる気にはならなかった。目を瞑るとあの子の横顔が頭に浮かぶ。苦手な数学の時間に必死に頭を悩ませる表情。お腹が空いた、と薄っぺらい腹を抑える仕草。古典の時間に眠る表情。苗字さんはいつも廊下側に顔を向けて眠る。俺はノートを取って、移動する先生を目で追う振りをして苗字さんを見ていた。授業の終わりにチャイムが鳴り、慌てたように目を覚ます苗字さんが、俺の名前を呼ぶ。俺はずっと見ていたくせに、今気づいた振りをして「どうしたの」なんて言う。

手をあわせて頭を下げる苗字さんにノートを手渡し、授業についていけるように内容を教えるのは、古典の後の休み時間の恒例になっていた。俺は四月に見た彼女の自己紹介カードに古典が好きだと書いてあったことを思い出して、下手な説明に何度も頷く苗字さんの横顔を見つめる。好きな教科なのに、先生の声が心地よくて眠ってしまうなんて可哀想な子だと何度も思った。けど先生は変わらなくていいなんておかしなことを考えていた。

ノートを写し終わった苗字さんが、ありがとうと言ってポケットから何かを取り出す。

「孤爪くん、レモン味、好き?」

手の平に転がされる包装された飴には可愛いクマのイラストが書かれている。嬉しそうに笑う苗字さんの表情から目をそらさずに、俺の口からは無意識に「好き」と溢れていた。




古典の時間、苗字さんはまっすぐに黒板に目を向けて授業を受けていた。席替えをしてから一週間経ったけれど、苗字さんが授業中に眠る姿を、俺は一度も見なかった。