消失点より


部室にやってきた及川は泣き腫らした目をペットボトルで冷やしていた。そいつの口から卒業後の進路を聞いたとき、俺が真っ先に考えたのは名前のことだった。地元の大学へ進学するのだと話していた横顔を思い出す。

及川が泣いたのは名前にその話をしたからだと思った。どうせ名前が寂しがるのを期待していたら、冷たい反応が返ってきたからとか、そんなくだらない理由だろうと。

だからそいつの口から「名前にはまだ話してない」と聞かされたとき、俺はアホみたいな顔をしていたと思う。まだ話していないのに先に泣いてんのかよ、と俺が揶揄おうとしたとき、及川が俯いていた顔をあげる。その表情が予想していたものより遥かに鬱々しく目に映って言葉を飲み込んだ。

「お願いがあるんだけど」
「……」
「名前のこと、岩ちゃんに頼んでいいかな」

及川の言葉に少し考える。大学に進んでから、名前が変なヤツらに目をつけられないように守ってほしいという意味だと受け取り、「おう」と頷いた。及川の彼女という以前に大事な幼馴染でもある。お前に言われなくてもそれぐらい気にかけてると言おうとして、及川の表情が痛みを我慢するようなものに変化したのが目に入った。

「岩ちゃん、意味分かってないでしょ」
「あ? 変なヤツらとつるまないように見てろってことだろ」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「は?」
「名前と一緒になってくれない?」

俺はこいつが言っている言葉の意味が理解できなかった。一緒になる? どう言う意味だ? 分かりづらい表現をする及川にも腹が立って「は?」と口にする。

「名前と付き合って、結婚して、家庭を築いてさ。二人で幸せになってよ」

ストレートにぶつけてきた及川の言葉を、俺はやっぱり理解することができなかった。何を考えているか分からない及川の目を睨みつけて、思い至った一つの可能性を口にする。

「なんだお前ら、別れたのか」

俺の言葉に及川はぐっと苦いものを食ったような表情になった。「とうとう愛想尽かされたかよ」俺はこんなことを言っておきながら、ありえないと考えていた。二人が別れることも、名前が及川に愛想を尽かすことも。

及川が自分以外の人間と名前が付き合うことを提案するなんてことも、考えたことがなかった。それが現実に起きて、しかもその言葉を自分に向けられたことに俺は少し動揺している。

「名前のこと、幸せにする自信がない」
「……」
「俺と居ない方があいつは幸せになれる。でも、ほかの男が名前とキスしたり抱き合ったりするのは耐えられない」

べらべらと喋り続ける及川に、俺はやっぱり動揺を隠せずに黙り込む。そのあとに「岩ちゃんなら我慢できる」と続けられた言葉に思わず「何様だテメェ」という言葉が溢れ出た。

「岩ちゃんが名前の相手だって思えば、諦められるから」
「……死にに行く訳じゃねえんだ。名前に外国行くこと話して、待っててほしいって言や済む話だろうが」

まるでこれから戦争に行く兵士のような面持ちで話す及川にそう言うと、及川は「そんな我が儘言える訳ないじゃん」と膝を抱えた。

「今更何言ってんだ。おまえの我が儘なんてあいつは慣れっこだろ」
「……何年かかるかも分からないんだよ」
「うじうじうるせぇ。とにかく話せ」

イライラが最高潮に達して部室を出る。大きく足音を立てながら体育館へ向かうと、ちょうど俺たちを呼びに来ていた名前と遭遇した。「どうしたの」と俺を見上げる名前に、部室で及川が待っているとだけ伝える。名前が首を傾げて部室へ向かうその背をじっと見送って、声を張り上げた。

「時間は気にすんな。ちゃんと話してこい」

名前はやっぱり不思議そうな顔をしていた。俺はこのあとの二人を想像して少しばかり不安になったが、体育館へと足を進めた。