あなたといきたい
岩ちゃんが出て行ってすぐに、名前は部室へやってきた。
俺は岩ちゃんが出て行くときも、名前が俺の名前を呼んで傍にしゃがみこんだ時も、ずっと顔を下げて黙り込んだままだった。
「徹、どうしたの。具合悪い?」
どこか不安そうな声色で、柔らかい手が俺の肩にそっと触れる。名前の優しさは俺の胸を抉ってくるようだった。心臓のあたりが痛い。ちゃんと話せって言われても、覚悟が出来てないんだ。もう少し待ってくれたっていいのに。卒業までだって時間はあるし、名前はまだ試験も控えているっていうのに。心を乱すようなことを言わない方がいいんじゃないか。せめて大学が決まってから……でも、名前の受験が終わってから、俺が日本を出るまでに一体どれだけの時間が残るんだろう。
「俺、」
「うん」
「名前に、言わなきゃいけないことがあって」
俯いたまま言った俺に、名前は「なあに」と泣きたくなるほど優しい声で言った。俺は目のあたりに力をこめて、ポツポツと卒業後のことを話した。何度もつっかえて黙り込んでしまった俺の髪を、名前はゆっくりと落ち着かせるように梳いてくれていた。ブランコ選手の試合は名前も一緒に見に行った。入畑先生のツテで、本人と話したことも知っている。だからか、名前は俺の話を聞いても驚いた様子は見せなかった。その反応は岩ちゃんとよく似ている。
「だから、卒業したら、俺は……」
遠くへ行くのだと。簡単に会えるような距離ではないのだと。いつ帰ってくるかも分からない。明確な将来のヴィジョンがあるわけでもない。ただ漠然と、バレーを続けていくということだけが頭にあるんだと。こんな俺に、おまえは付き合わなくていいんだと。そう、言いたかった筈なのに。喉で引っかかったように言葉は出てこない。いつの間にか名前の指の動きは止まっていた。ただそこに暖かな温度が触れているだけだ。
その温もりに縋るように目を閉じていた俺は、名前の口から「知ってた」と発せられてもしばらく動けなかった。
「徹のお母さんから聞いたの。『徹がもう話してると思ってた。ごめんね。あいつがちゃんと言ってくるまで、待っててやって』って」
名前のその言葉に俺はおそるおそる顔をあげた。頭に乗っていた手の平は自然と離れていく。視界に映った名前は、眉尻を下げて薄く微笑んでいた。そんな表情が見られると思っていなかった俺は目を見開く。
「徹から、ちゃんと聞けて良かった」
話してくれてありがとう、と名前は笑った。俺は名前がこのあとになんて言うのか、嫌でも想像がついてしまって息を止める。
そうなることを望んでいた筈なのに。俺が言って名前を傷付けるくらいなら、名前から切り出してほしいとさえ思っていたことなのに。
「言いたいことがあるんだけど、いいかな」
まっすぐに俺を見るその瞳には変わらず星が瞬いている。まだ俺のことを好きでいてくれている。なのに、揺らいでいるように見えるのはどうしてだ。名前の心が離れていっているからか。覚悟を決めたような強い眼差しが向けられる。俺だけが置いていかれている。
「待って」
頼むから、その先を言わないでくれ。
名前の細腕を掴んで言えば、名前は言いかけた言葉を飲み込んでから「先に言っていいよ」と言った。そんな悲しそうな声で言うなよ。ごめん、全部俺のせいだっていうのに。だらだらと長引いたって傷が深くなるだけなのに。
けれど、どうせ離れてしまうなら。
この先その瞳に俺以外が映るというのなら。
その心に、一生消えない深い傷を残してしまいたいとさえ思っている。