これからのこと、それからのこと
肌寒さを感じる時期になると、ほとんどの三年は志望校を決めて受験勉強に勤しんでいた。かく言う俺も、進みたい高校はとっくのとうに決まっていたので、入試の対策に追われている。まだ決めていない生徒は進路指導の教師に相談したり、教室の後ろにあるパンフレットを読み漁ったり。徐々に焦りが顔に滲み出る生徒ばかりの教室で、苗字は志望校が決まっていない側の人間だった。その割に休み時間は小説を読み耽っているので、周りが戸惑ってしまう。
そんな生徒を担任が放っておくわけもなく、今日中に進路調査票を出せと言われた苗字は口をつん、と尖らせて目を細めていた。
その日の放課後、部活に顔を出して練習に混ざったあと、居残りを命じられていた苗字のことを思い出した。人気のない廊下を突き進んで自分の教室へと向かう。窓の外はオレンジ色に染まっていて、HRが終わってからかなりの時間が経っていることが分かる。もうとっくに帰ってるかもなあ、そんなことを考えながら教室の扉を開けると、ど真ん中の席に苗字は居た。
机に突っ伏すようにして倒れていたので、慌てて駆け寄る。俺たちが気付かないだけで相当悩んでいたのか、と顔を覗き込むと瞼が閉じられていた。落ち着いて耳をすますと、小さく寝息も聞こえる。こ、こいつ……。起こさないように注意を払って、腕の下敷きになっている進路調査票のプリントを引っ張り出す。志望校を書く欄どころか名前の記入欄すら空白で呆れてしまった。ふう、とため息を吐くと、目を覚ました苗字がゆっくりを体を起こした。
「あれ、まだ帰ってなかったんだ」
「いや、こっちの台詞な」
苗字は小さく欠伸をこぼすと、俺の手からプリントを受け取った。
「きまんねーの?」
「うん」
ぼーっとしている苗字に苦笑して、前の席に腰掛ける。
「なに重視?」
俺の言葉に苗字はしばらく考え込んでから「寮があるとこ」と言った。予想外の発言に俺は目を見開く。ぽん、と浮かんだ疑問を、きっと出会った頃の俺なら口にすることはなかっただろう。
「なんかあったのか?」
言いたくなかった言わなくていいけど、と続けて言った俺に、苗字は頬杖をつき、俺から視線を外した。
「結婚してから夫婦二人の時間って無かったし、寮入ったほうが良いかなあって」
淡々と言う苗字に、俺は本日二度目のため息を吐いた。
「お前がそこまで気ぃ使う必要ねーだろ。むしろ寮入りたいなんて言われたらそっちのほうが……」
「……それもそうか」
難しいな、と腕を組んで唸り始めた苗字に、気が利きすぎるというのも考えものだな、と思った。
眉間にしわを寄せて考えている苗字から不自然に目を逸らして、俺は言おうと決意しては先延ばしにしていた一言を言う。
「おすすめの学校あんだけど」
苗字が興味を示したように「え、どこ」と聞いてくる。俺はどんどん早くなっていく動悸と動揺を悟られないように、「音駒高校。練馬区の」と返した。
「寮じゃねーけど、いいとこよ」
「なにそれ、卒業生みたいな口ぶり」
楽しそうに笑う苗字に俺は徐々に顔が熱くなっていく気がして、誤魔化すように頬杖をついて必死に顔を逸らした。
「夫婦の時間を作ってやりたいならさ、部活入ればいいんじゃね?」
「部活?」
「……バレー部のマネージャーとか」
言い終わった途端、やけに教室が静まり返ったような気がした。世界中の音が一瞬消えてなくなったような感覚。そんな俺の心の中では言っちまったあああ、と叫ぶもう一人の自分が居る。
苗字は戸惑っているのか驚いているのか分からないが、さっきからずっと黙りこくっている。直前まで楽しそうに笑ってただろうが。「なんてな」と誤魔化そうと口を開いた俺より先に、苗字が言った。
「バレー、ルールよく分かってないんだけど」
予想していなかった言葉に俺は思わず顔を苗字に向けた。視界に映ったのは普段通りの苗字。
「……そんなん俺が教えますよ」
苗字は「そっかー」なんて呑気に言ってるけど、俺の心臓はもう壊れたんじゃないかってぐらいバクバクしていた。え、え? 音駒高校にすんの? 受かったらマネージャーやってくれる感じ? とりあえず頷いてるだけ? 無表情を貫いたまま頭の中でぐるぐると考えていた俺に、苗字は多分気付いてない。
「ねこまってセーラー服?」
「……え、わかんねえ」
ずっと予想外のことばかり言う苗字に、俺の思考は置いてけぼりだ。苗字は立ち上がって教室の後ろに並べられたパンフレットを見に行ってしまった。
俺も慌てて立ち上がり、後を追う。音駒高校の女子の制服なんて気にしてもいなかった。苗字はセーラー服がいいのだろうか。頼むからセーラー服であれ。いや、いっそブレザーでも良いから、来年度はセーラー服に変えてくれ。
「あ、あった。音駒高校」
俺はドキドキしながら苗字の横からパンフレットを覗き込む。
「女子の制服はセーラー服だって。いいじゃん」
パンフレットを持ち上げて真剣に読んでいく苗字に、俺はほっと安心のため息を吐いた。最低限のスタートラインには立てた気がする。それから苗字は張り切ったようにパンフと進路調査票を手に職員室へと駆けていった。俺は脱力してその場にしゃがみこむ。まだ確定じゃない、たくさんある可能性のうちの一つだ。
それでも、その道が俺と重なることがあったら、これ以上嬉しいことはない。次は受験勉強を一緒にやろうと誘うことを決意して、赤くなっているであろう顔を手で扇いだ。