感情は惑星の重力


苗字が転校してから、初めての春が訪れた。無事に音駒の一次入試に合格した俺たちは、今、二人並んで音駒高校の校門の前に立っている。苗字の髪は、受験生だからと黒く染められたままだ。ゆるく巻かれた髪がふわふわと風に揺られてなびく。飛んできた桜の花びらが苗字の頭に乗っかり、艶のある黒髪を滑って落ちていく。自然と目で追っていた俺に気づいたように、苗字が俺を見上げた。「行くか」と声をかけて足を踏み出す。好奇心が抑えられないのか、あたりを見渡している苗字に、俺は吹き出すように笑った。

合格発表の日から卒業するまでの間、俺は苗字に頼まれるままバレーのルールやポジションなどを教える日々を過ごしていた。多分、明言はしていないけれど、苗字はバレー部のマネージャーになってくれるのだと思う。もちろん、募集をしていたら、の話だが。

苗字は3組、俺は2組と分かれ、それぞれの教室へ向かう。入学式や長いHRを終えて、自然と二人で帰路に着いた。苗字は相変わらずのコミュニケーション能力でクラスのほとんどと会話を終えて連絡先もゲットしたらしい。しかもそのうちの一人がバレー部に入ると言っていたとか。初日でそこまで会話が弾むのがすげえ、と呆気にとられていると、苗字が「部活見学、楽しみだね」と笑い、続けて言った。

「男子バレー部はマネージャー募集しているらしいし、一安心」

胸を撫で下ろして苗字が言い、俺はいろんなものがこみ上げてきたのをこらえて、「そうだな」と応えた。




数日後の部活見学初日、見覚えのある野郎が下駄箱に居て、自然と顔が歪むのが分かった。中一のときに対戦したやつ。同じくバレー部入部希望だというやつも入れて、三人で名前を名乗った。夜久衛輔。海信行。俺が夜久に、昔試合でボコボコされたのだと言えば「覚えてねえ」なんて返された。胸がむかむかしてきて、さらに顔が険しくなっていくのが分かる。互いに睨み合っている殺伐とした空気の中で、突然弾んだ声が聞こえた。

「黒尾―!!」

ぱたぱたと音を立てて駆け寄ってくるのはジャージに着替えた苗字で、その笑顔に荒んだ心がサッと撫で付けられたように静まった。

「あ、夜っ久んじゃん!」

苗字の言葉に再び心が荒れ狂うのが分かったが、そういえばこいつ三組とか言っていたな、と思い出す。マジで? ……この二人同じクラスなの??

「これから見学だよね。私も一緒に行っていい? あっ、もしかしてあなたもバレー部希望? 私、マネージャー希望なんだ。よろしくね」

にこにこと花が綻ぶような笑みで海に手を差し伸べる苗字。海も同じようににこにこと名前を名乗ってその手を取った。……なんか、この二人を見ていたら、ごちゃごちゃした気持ちが、潮が引くように消えていくわ。

相変わらずの好奇心と積極性で、夜久と海に話しかける苗字を横目で見守りながら体育館へと向かう。音駒高校は長いこと女子マネージャーが居なかったようで、先輩達は苗字の姿を見て言葉を失っていた。絶対に他の部に渡しちゃダメだぞ、と力強く言う先輩に困惑している俺たちをよそに、苗字は主将から仕事を教わっていた。ほんっとに行動が早い。

パッと見真面目系に見えなくもない苗字の耳に、ピアス穴が複数空いてることに気づいた先輩がビクビクしていたり、普段の素行を気にして見るようになった顧問をよそに、苗字は仮入部期間が終わり、正式に入部した後も真剣にマネージャー業務を励んでいた。先輩達が困惑するのも分かる。俺も見た目で勝手に決め付けていた部分があったから。

朝練に欠かさず来て、放課後練も最後まで残って手伝う苗字の姿を見て、先輩達が抱いていた不安は解消されたようだった。それを誇らしげに見てにやけていた俺に、夜久が顔をしかめて言う。

「鏡見てきた方がいいぞ」

再び睨み合う俺たちを見て、苗字と海はにこにこして「仲が良いなあ」と口を揃えて言った。そんなことは断じてないんですけどね。

苗字はずっと黒髪のままなのかな、と考えていたある日の朝練。「おっはようございまーす!」と快活に体育館に入ってきた苗字の髪は燃えるように真っ赤だった。いつの間にか動きも呼吸も止まっていた俺をよそに、夜久と海が歩み寄る。

「すっげー色、なんでまた赤なんだ?」
「音駒のユニフォームが赤だから」
「単純かよ」
「いいと思うよ」

にこにこと笑いあう三人に呆気にとられていた俺のところに、苗字が小走りで近付いてくる。

「なんか落ち着かなくてさー、どう? 変?」

正直めちゃくちゃいい。金だったときより好きかもしれない。グラデーションのように黒と赤が混ざった色は苗字によく似合っていた。苗字は褒めてもらうのを待っている子供のようにキラキラとした瞳を俺に向けていた。徐々に顔が赤くなっていくのを自覚しながら、口を開く。

「よく、似合ってマス……」

満面の笑みになった苗字が踵を返して、入口から入ってきた先輩方に挨拶をしに向かった。俺も慌てて後を追う。先輩の目と口が大きく開かれていくのを確認しながら、苗字はいっつも予想の上を行くやつだなあ、と脱力した。