星より多く月より遠く


ミーティングも終えた後、ほかの学校の試合を観戦する為に客席へと移動する。荷物を座席へ置いてから、私はわざわざ少し離れた場所のお手洗いに来ていた。鏡に映っている自分の顔は普段とそう変わらないように見える。

冷たい水で顔を洗ってから外に出て、ゆっくりとした足取りで通路を進む。サイフは持ってきているし、お土産でも見てから戻ろう。なんて考えていた私は、正面から見覚えのありすぎる長身トサカ頭がやってきたことで固まる。黒尾はきょろきょろ誰かを探しているように視線を泳がせていて、離れた場所で立ち止まる私に気付くと、安心したように肩の力を抜いたのが見てわかった。

「黒尾、どうしたの」
「土産買いに来た」

私は小さく微笑んでから「それじゃあ一緒に行こ」と誘った。途端に嬉しそうに笑う黒尾と連れ立って、お土産屋さんへ向かう。

その足取りは、普段よりも遅い。

手を伸ばせば触れられる距離を歩く黒尾の表情が気になって、自然を装って盗み見る。黒尾はすっきりした顔をして、正面を見ていた。

「ねえ、黒尾」
「どうした?」
「研磨、楽しいって言ってくれたね」

私の言葉に黒尾はきょとんと目を丸めてから、晴れやかに破顔した。本当に嬉しそう。この四年で、一番の笑顔かもしれない。

「今日は私の人生で最高の日だった」

黒尾はまた嬉しそうに笑う。なんだか、今の黒尾なら箸が転がしただけで笑いそうだと思った。

「黒尾」
「んー?」
「ありがとう」

この雰囲気なら照れくさくないな、と思って口にしたお礼に、黒尾は何故かぴしりと固まって足を止めた。なんで? という疑問が分かりやすく顔に書いてあったので、「色々あるよ」と指を折って数えていく。

「音駒高校のこと教えてくれたでしょ。それにマネージャーに誘ってくたし、バレーのルールも教えてくれた。ほかにもあるよ。受験勉強一緒にしてくれたことに、他校の人に絡まれたときに助けてくれたこと、マネージャー探しで落ち込んでたら励ましてくれたこと」
「……」
「ありがとうって、いくら言っても足りないくらい」

黒尾はじっと私を見ていたけれど、決まりの悪そうな表情で言った。

「先越された」
「え?」
「苗字、ありがとう」

黒尾は大きな体を折り曲げて、深く頭を下げた。滅多に見られない黒尾のつむじが見えている。

「この三年間、お前が支えてくれたから、ここまで頑張れてこれた」
「……」
「音駒を選んでくれて、マネージャー、やってくれて、ありがとう」

区切るように言った黒尾の言葉を受け取って、心の糸が緩んだようにじわじわと胸が熱くなる。比例するように鼻の奥が痺れ、熱い涙が溢れてきた。

止めたくても止められず慌てている私に、黒尾は顔をあげて心底優しい表情をした。ジャージの袖で涙を拭われ、されるがままの私を見下ろして言う。

「やっと泣いたな」
「……」
「後輩の前では我慢するだろうと思った」

涙を拭ってからぽんぽんと頭を叩く黒尾の優しさに、堪えきれず嗚咽が漏れる。黒尾は驚きもせずに落ち着かせるように私の肩に手を置いた。

「苗字を一人で泣かせたくなくてさ、ガン泣きしてるリエーフ放置して来たのよ」

その光景が難なく想像できて、思わず笑声がこぼれる。泣きながら笑う私を見て、黒尾は嬉しそうに笑っていた。なんだか一人だけ余裕なその表情を崩したくて、すぐ傍にあった黒尾の胸に、恐る恐る額をくっつける。途端に体を固くした黒尾に、今度は私が余裕を取り戻して笑ってしまう。泣きすぎて上がった体温を分けるように額を押し付けて、もう二度と見ることのできない今日の光景を思い出す。これまでの三年間を思い返す。

汗を流して学校を駆け回った日々を、ボールを追いまくった時間を、黒尾や海、夜っ久んと並んで歩いた光景を。

これで最後。最後なんだ。自分に言い聞かせて再びぶり返して泣き出す私を、黒尾はこわれものを扱うようにそっと抱きしめた。宥めるように背を叩く手のひらの大きさに安心して、だらりと下げていた両腕を頼もしい背に回す。ぐっと力を込めて抱き返して、泣き顔を見られたくなくて顔を埋める。お互いに顔の見えないこの状況で、黒尾も少しは泣けたらいいな、とぼんやりとした頭で考えた。