昨夜はどうにも眠りが浅かった。しかしそれを言い訳に、みっともない姿は晒せない。
 亜希は昨日のうちに悩みに悩んだ服を手に取り、のそのそと出かける支度を始める。歯磨きと洗顔を済ませ、手早くメイクを施していく。
 嵐と二人で出かけるはずだったのに、保護者同伴だと言わんばかりについてくることになった存在がある意味において一番の問題だった。
「泉ちゃん、本当になんで急に……」
 朝の「俺も行く」発言から、何度も反芻したその疑問を口に出した。亜希はその都度、自分に都合のいい解釈をしてしまいそうになる。
 しかし、わかっているのだ。そんなことはあり得ない。彼自身が散々口にしている「お兄ちゃん」という目線で、彼は物を言っているのだ。……実際、兄になったことなんてないくせに。
 亜希が泉を兄だと思ったことなど、ほぼないに等しい。あるとするならばそれこそ、出会ってすぐの頃くらいだろう。深いため息をついてから、気持ちを切り替えるべく姉と慕う嵐のことを考えることにした。
 泉とは違い、彼のことは本当に姉のように思っている。いつも笑顔で、悩んでいることもそっと道を示してくれたり困っている時には優しく助けてくれたり……そんな彼は「兄」と呼ぶに相応しいのだが、本人希望により「姉」と呼んでいる。
 そもそも彼の美しさ、立ち居振る舞い、仕草など、全てが姉と呼ぶに相応しい。と、少なくとも亜希は思っている。もともと彼女は一人っ子なため、姉がいたらこんな感じなのだろうか。という想像に基づいての判断だが。
 そんな姉と、二人で出かけるだけなんだけどなあ。思いつつ、壁に掛けてある時計を見上げれば、そろそろ頃合いだ。支度も終わったことだし、そろそろ出かけよう。
「じゃあ、行ってくるね」
 リビングでテレビを見ている両親に声をかけ、亜希は勢いよく玄関のドアを開ける。
「うわっ」
「えっ?」
 聞こえてきた声に、思わず肩が跳ねる。勢いよく開け放たれたドアを間一髪で避けたのか、そこには眉を釣り上げて「ちょっとぉ?」と声を上げる泉の姿があった。
 どうせ向かう先は同じで、通り道でもある亜希の家を素通りするという選択肢を持たなかった彼は、程よい時間に迎えに来たところだった。
 まさか来るとは思っていなかった亜希は、予想外の展開に目を白黒させる。なんせ彼女はそこに泉どころか、人がいるなど思ってもみなかったのだ。
「えっ? えっ? 泉ちゃん?」
「そんなに勢いよくドアを開けたら危ないでしょ? 全く、亜希はもう少しお淑やかになるべきだよね〜?」
「ごっ、ごめんね? でも、なんで……」
「あのさあ、行き先は一緒だし、亜希が遅刻しないように来てあげたんだよ? そこは感謝するべきなんじゃない?」
「あっ、ありがとう! 泉ちゃん! で、でも……」
「でもじゃないよね? まあ、いいから行くよ。なるくんを待たせる気?」
 ドアを開ける体制のまま固まっていた亜希は、その言葉でハッとしてとりあえず家を出る。それを見て、泉は小さくため息をついて先を歩き始めた。
 置いて行かれないようにと、亜希は小走りでその横についた。
「泉ちゃんが迎えに来てくれるなんて、聞いてない」
「何? 嫌なわけ?」
「嫌じゃないけど……明日雨が降りそう」
「ちょっと。それ、どういう意味?」
「へへっ」
 他愛もない会話だ。そんな会話を広げながら、二人は待ち合わせ場所であるショッピングモール最寄りの駅まで向かう。
 道中、会話はあまりない。朝の通学時のように、基本的には彼女が話して泉が相槌を打つ。いつもと違うのは休日であり、互いに私服で目的地が同じことだ。
 二人で私服で並んでいると、チクチクと視線が刺さる気がして亜希はどことなく気まずさを覚える。
 駅に行くまでも、ついてからも、少なからず感じていたものだ。あと数分で到着する電車を待つホームでは、尚更。
 それもそうだ。隣にいる男はアイドルとしても、モデルとしても、それなりに名前が売れている人だから。自分もモデルとしてそれなりの知名度はあるくせに、亜希はそんなことばかりを考える。
 二人で並べば目立つのだ。良くも悪くも。
 ここで亜希はなるほど。と手を打ちたくなった。嵐と二人で出かけることを快く思っていなかったのは、同じKnightsのメンバーが好奇の目に晒され、妙なスキャンダルに巻き込まれないためだったか。
 そこに思い当たればあとは自分に都合のいい勘違いを思い出して顔から火が出そうになる。どうしてそんな簡単なことも思いつかなかったのだろうと、浅慮な自分を恥じた。
「何?」
「えっ?」
「なーんか変なこと考えてない?」
「うーん……えへへ、内緒」
 誤魔化すように笑って、到着後一拍遅れて吹いて来た風にさらわれる髪を押さえた。人の波に従うように一歩踏み出せば、すぐに電車へと乗り込むことができた。
 そこでも突き刺さるのは視線。考えすぎだというのはわかっているのだが、もしもこんなことで泉のアイドルとしての道に障害が出来上がってしまうとしたら嫌だ。
 こんなことなら。
「別々の方が良かったかな」
「ハァ? 何それ」
「あっいや、あのね、泉ちゃ――」
「そんなに俺と出かけるの、嫌なわけ? 毎日一緒に登校しておいて?」
「違う。違うって。だから……」
 仕方なく、今しがた考えてることを口にする。口からこぼれてしまった言葉は、今更撤回ができるはずもない。特に、彼に関しては。正直に思ったことを彼にだけ聞こえるように小声で囁けば、泉は呆れたように半眼で亜希を睨んだ。
 あのさ。ため息混じりに吐き出された声に続いたのは、「馬鹿じゃないの?」という冷たい言葉だ。冷たい言葉なのに、声色はどちらかというと優しい。
 突き放すというよりは、呆れつつも亜希を諌めるようなそれに、彼女はほっと胸をなでおろした。しかしほっとして脱力したおかげで、彼のくどくどとしたお説教じみた言葉は右から左へと流れていってしまった。
「ちょっと。聞いてる?」
「あっ、」
「亜希?」
「いっ、泉ちゃん! 着いた! 着いたよ!」
「……あとでお説教だよ」
 ジトリと睨まれ、彼女はまるで蛇に睨まれた蛙のような気分で電車を降りる。もう、視線は気にならなかった。
 ……というより、隣の男の明らかな不機嫌を感じて身を縮こまらせることしかできない。
 気まずさを覚えながらも改札を出れば、明らかにそこら一体の雰囲気を変える輝きを放つ人物が目に入った。
 すらりとした長身。長い手足。その人は、私たちを見るなり笑顔を浮かべて長い手を振って笑顔を振りまく。
「亜希ちゃん、泉ちゃん、こっちよォ〜!」
「……うわ」
「お姉ちゃん!」
 げんなりとした様子で小さく声を漏らした泉とは対照的に、亜希はその人に手を振りながら駆け寄る。
 簡単な挨拶を済ませ、亜希を中心にして三人は目的の場所へと足を運ぶのであった。