感情と病熱

全身を彼に揃えてもらった服でコーディネートして、増えた衣服をこれまた買ってもらったスーツケースに詰める。神ちゃんに買ってもらった服は何着もあって、スーツケースに入らない分は彼の部屋に置いてもらうことになった。

「おまたせ…!」

重いスーツケースを転がしながらマンションの前に出してもらった車に向かう。車にもたれかかりながら待ってくれていた神ちゃんはにっこり笑うと私の手からスーツケースを受け取り、トランクに入れてくれた。

「ごめんね、準備に手間取っちゃった…!」
「ええよ。その服きてくれたの嬉しいし」
「何だかんだ試着以外で初めて着るよね…本当にありがとう」
「僕の部屋にも服置いてあるからいつでも遊びに来てええよ」
「…そんな軽い気持ちじゃ行きません」

はまちゃんもそうだけど、神ちゃんも、ちゃんとアイドルという自覚をしてもらわないと、驚くのはこちらなのだ。「大丈夫やろ」と言って笑う彼に「根拠は?」と聞くと「この1週間」と言われてしまって何も言い返せない。たしかにこの1週間、何か騒ぎが起こることはなかった。おし黙る私ににかりと歯を見せて笑った神ちゃんは「ほら、乗りぃ?」と急かしてきた。無言で後部座席に乗ると、彼は我慢しきれないと言いたげに吹き出しながら運転席に乗り込んだ。

「もうどんどん遊びにきてよ」
「軽率には行かないってば」
「じゃあ、意味があったら来てくれるん?」
「それは…」

「当然だ」と言い切りたかったのに、バッグミラーに映る彼の瞳に見据えられて言葉が詰まる。すっと目線をそらした彼はアクセルを踏み込んだ。

「僕、一目惚れって言ったやん」
「…っうん…」

彼の口から発せられる言葉に体がこわばる。この1週間ずっとその言葉に囚われていたような気がする。そんなわけないって、深い意味はないって何度も自分に言い聞かせたし、それ以上のことは本当に何もなかったのだ。だからきっとこのままでよかった。触れなければよかった。しかし今それを彼が触れたのだ。私は逃げることができない。まっすぐな瞳と声音と言葉に、真摯に向き合わないといけない。それがほんのちょっと怖くて顔を伏せた。

「今はな、この気持ちが何なのか微妙で、さ。ただの好意なのか、それ以上の気持ちなのか。今やってな?本当は望ん家に送るのなんて癪やねん。でも、静久ちゃんを縛り付けるのもちゃうやろ?だから、まー、しゃあなしって状況ですよ。……静久ちゃん聞いてる?」

頭のてっぺんにそ心配そうな声が降りかかった。ゆっくりと顔を上げると、車は赤信号で止まっており、神ちゃんが振り向いていて呼吸が止まりそうになるほど胸が苦しくなって、顔に熱が集まる。

「いや、ぁ…っ」

なんて言えばいいのかわからなくて言葉を詰まらせると、彼は目を細めて笑って前を向く。信号はやがて青に変わり、車はゆっくりと進み始めた。

「うん、今わかった。僕、静久ちゃんのこと好き」

バクリ、と心臓が大きく震えたような気がする。ぎゅーっとお腹のあたりが痛くなり、そっと肩を縮こまらせた。

「あかんな、一目惚れの子と1週間も一緒にいたらそりゃ好きになってまうよね。しゃーないしゃーない」
「私…」

なんて言えばいいのだろうと視線を泳がせる。何度も何度も言葉を探して、口を開いては息だけ溢れて音にならない。

好きか嫌いかって言われたら、好きだ。
だって嫌いになる理由がない。
でもそれ以上も見つからない。
そもそも自分自身すら好きになれない今の私に他人を好きになる余裕なんてなくて、好きになってもらえるようなところもないのに。彼は挙動不審な私をカラカラと笑い飛ばして、「百面相」と言う。たしかに、色んな表情をしていたかもしれない。そっと頬に手を添えるとわかりやすいぐらい熱くなっていた。

「ええよ。付き合いたいとか…まぁ、そりゃ両思いやったら付き合いたいけどさ、今好きな人がおるわけちゃうなら無理に返事くれなくて大丈夫。ただ、僕が好きってことを意識してくれたらそれで十分」
「神ちゃん…」

私よりうんと余裕のある大人な言葉にそっと胸をなでおろした。焦っていた心が落ち着いて行く。こんな気配りもできる彼が私を好きと言ってくれたことが不思議で仕方ない。

「ほら、もうすぐ望ん家」
「うん…ありがと」
「あー、それと」

神ちゃんはハンドルを右にきりながら口を開く。なんだろうとここから見える彼の左耳を見つめた。

「僕の言葉に縛られんといて。静久ちゃんは静久ちゃんで、自由に誰かを好きになっていいんやから」




「じゃあ」と私を望くんの部屋の前まで案内してくれた神ちゃんはニコリと笑ってエレベーターに消えて行く。その姿を見送ってから私はそっとため息をついた。まさかこんなことになるなんて思わなかった。恋なんて、しばらく縁のないものだったし、告白なんて生まれて初めてされたのだ。それも簡単にはいかないような人に。

「好きに…か」

あと五人、一緒に暮らすのだけれど、彼らのことはきっと好きになってはいけない、もしくは好きになっても伝えてはいけないだろう。何度も確認するが彼らはアイドルで、「好き」という軽率な気持ちだけで付き合うなんてお互いにいいことない。彼らのためにもならない。

「絶対、恋しない」

神ちゃんには悪いが、それは譲れない。私はじとりと浮かんだ額の汗を手の甲で拭い、インターフォンを押す。

しばらく待っていると、中から足音が聞こえてきた。望くんとは2週間ぶりだが、ライブ映像を見ていたから以前よりよく知っているような気がする。

ガチャリ、というありきたりな音でゆっくりとドアが開き、Tシャツにジャージというラフな格好にメガネをかけた望くんが出てきた。こうやってみるとやっぱり身長高いなーと思いつつ「久しぶり、お世話になります」と声をかける。しかし彼は虚ろな目を揺らがせて、ふらふらとこちらに近付いてくる。何事だと身構えると、その大きな体が突然倒れてきた。

「え、ちょっ…!!」

咄嗟に前に出てその体を受け止めるが、Tシャツ越しにじんわり滲んだ汗が手のひらを濡らすものだからどきりとする。もしかしなくても…。

「望くん…熱あるの…?」
「んー……ごめん…感染るから…」

望くんはそう呟くと私の肩に手を置いてなんとか自分の足で立つが、その姿は不安定極まりない。うるっと潤んだ綺麗な目が熱で浮かされて少し色っぽい…いや、年下の子をなんて目で見てるんだ。浮かんだ邪念は必死に振り払った。

「神ちゃんとこ、もどったほうがええよ…」
「いや、置いとけないでしょ…!」

よくそんな寂しそうな声音で強がりが言えたものだ。私は望くんの体を支えながら中に入る。彼はうわごとのように「感染るから…」「離れて…」と繰り返す。私の服の裾掴んどきながらよく言えるなと思いながら浅いため息をつく。

「私ね、世話焼きすぎて自分を追い詰めたような女なの。そんな私がこの状況で放っとけるわけないからね?」
「静久さん…」
「望くんは甘えていいんだから」
「………うん」

ほんのちょっとだけ嬉しそうに口角を上げて彼は頷いた。やっぱり綺麗な顔だと思いながら望くんをベッドまで運ぶ。
「ご飯は食べた?」と聞くと小さく首を振る。まぁこんな状態でご飯を用意できるとは思えないし、当然といえばそうだろう。私は腕まくりをして立ち上がる。

「冷蔵庫勝手に開けていい?」
「やだ…」
「でもなんか食べないと…」
「しょくよくない…」
「何言ってんの。ちょっとでもいいから食べないと。ゼリー買ってこようか?」
「いい…」
「いいって…。全然良くないし…。コンビニどこ?買ってくるから」
「じゃあおれもいく」
「はぁ!?何言ってんの!?本末転倒じゃん!!」

自分の状況をわかっていながら言っているのだろうかと少し疑心が生まれてくる。そんな私に、彼は捨てられた子犬のように上目遣いで見つめてきた。呼吸が止まりそうなほどかわいい…。

「何もいらへん…。寂しいねん、そばおって?」
「っ…!!」

なんてずるい男だろう。ご飯を食べて薬を飲んで寝るのが一番だとわかってはいるのだが、こんな言い方をされて断ることなんてできなくて、「わかりました…」と呆れながら言ってる時点で望くんには勝てそうにないと悟った。

「ほんまにありがとう…」

ふわりと笑って彼は長い睫毛を伏せる。なるほど、「前途多難」とはこういうことか、などと納得してる場合じゃない。