疑惑と戯言

望くんとの二人暮らしも慣れたある日のことだった。私がいつも通りスーパーで買い物をしていると肩をがしりと掴まれる。何事だと思いながら振り向くと、そこに立っていた人物に血の気が引いた。

「雨野さん…?」

それは職場の同部署の先輩の由香里さんで、彼女はツリ目気味の目を丸くして少し声を震わせた。私が無断欠勤をしていることを彼女は知っているだろう。
…私はあくまで退職届を出す前に自殺することで職場の信用を落とそうと考えていたため、まだ籍が残っているはずなのだ。もちろんそれを忘れたわけではない。ただ、逃げていただけで。彼女は八の字だった眉をきりりと吊り上げて、私の肩を掴む手に力を込める。

「連絡もつかないし…会社にも来ないし…家も解約してるし…みんな迷惑してるのよ!?」

ああ、そういうところだ。
私の心配より会社の心配。自分の利益。それは多分おかしいことではないのだろうけれど、私はそんな冷たい世界では生きていけない。甘えるなと思われるかもしれない。それでも私は人の暖かさに触れてしまったから、もう戻れない、戻りたくない。例えそれが私の自分勝手だとしても。

「……すいません…、私は…」
「謝って済むことじゃないでしょう!?理由を言いなさい!!」
「理由…」

理由なんて沢山ある。
あなたのそういうところだ、とも思う。だけどそれを口にするほどの度胸をあいにく持ち合わせていない。きゅっと下唇を噛んで俯くと彼女の機嫌がさらに悪くなったような気がする。このままでは言いくるめられてしまうことは容易にわかって、またあの世界に戻らなければならないのだと思うと目の前がくらりと揺れる。

必死に来るはずもない助けを求めて祈る。声にならない叫びはきっと誰にも届かないのだ。


「静久さん!」


ーーーーそう、思っていたのに。

俯く私の視界に影がさす。反射的に顔を上げるとそこには広い背中があった。

この声…望くんだ。

どうしてここに望くんが…?疑問よりも先に由香里さんの「誰よ、あなた」という訝しげな声が聞こえてきて、肩が揺れる。どうやら彼女は望くんのことを知らないようだが、あまりここで騒ぎになると他のお客さんにバレるかもしれない。私は声を出さないように彼の服の裾を軽く引っ張る。望くんはそれになにも応えず、落ち着いた大人っぽい声音で話し始めた。

「はじめまして、静久さんの会社の方でしょうか?」
「ええ、そうよ。というか、雨野さんは直属の部下ね」
「そうだったんですね。静久さんがお世話になりました」
「は?あなた本当に誰よ?」
「すいません、ご挨拶が遅れて…。僕は彼女の旦那です」

「は…?」
「え…?」


望くんの当然と言いたげな言葉に私と由香里さんの声が重なる。思わず彼の背中をばんばんと叩いてみるのだが反応はない。どうやら本気でそういう設定で話を進めるみたいだ。私は由香里さんにバレないように小さくため息をつき、右人差し指につけていたシンプルなデザインの指輪を左薬指に付け替える。まさか自分ではめることになるとは思わなかった…。しかし彼にも考えがあるみたいだし、とりあえず今は話を合わせてみる。

「冗談でしょ…?」
「いえ…本当です。その、少しその、結婚の関係でごたついてしまって…。報告が遅れてしまい申し訳ありません…」
「しばらく僕の母と揉めまして…。その時に携帯も壊してしまったみたいで…。長らく連絡がいっていなかったようですいません。後日寿退社という形で退職届を提出すると思います」
「は、はい!退職届を…はい。出し、ます…」

由香里さんは何度か私と望くんを見比べて、何か言いたげな表情をするが、結局なにも言葉にならないようで長い長いため息をついた。

「わかったわ…。部長には私から通しておきます。ちゃんと謝って、それから退職届を提出なさい」
「は……い」

あっさり過ぎる展開に思わず素っ頓狂な声が漏れる。由香里さんは苦笑をこぼして「お幸せに」と去っていった。彼女の姿が完全に見えなくなってから望くんはこちらを振り向いて「傘」と呟く。よくみると彼の手には一本の傘が握られていた。

「え…?」
「雨、降って来るんやって。ずぶ濡れになると大変やし、迎えに行こうと思って」

それでここにいるのかと納得。雨はそんなに好きではないのだが、今日ばかりはその存在に深い深い感謝を抱いた。

「ごめん望くん…嘘をつかさせて…」
「ん。あのままやったら静久さん逆戻りやん。そんなの俺らかて嫌やしな。まぁ…あの人が俺のこと知らんくてほんまによかったぁ…」
「うん…そうだよね。本当にありがとう。これでちゃんと退職届出せるよ」
「ちゃんときっぱりやめてこいよ。結婚しますって」
「もう…!」

本当は少しどきりとしたのだ、彼に「旦那です」と言われて。彼はそんな私の気持ちを知ってか知らずか「ははは!」と楽しそうに笑い声をあげた。私はそんな彼を尻目に左薬指にはめた指輪を元の場所に戻し嘆息する。彼はポケットからメガネとマスクを取り出して顔を覆った。

「まだ買うもんある?」
「うん。鶏ももが安かったから買おうかなって」
「主婦やん。さすが俺のお嫁さん」
「ちょっと…っ、本当に恥ずかしいから…!!」
「そういう反応がいちいち可愛いねん」
「あーもー、聞こえないー」

私はまだ楽しそうに設定を引きずる彼を置いて生肉売り場に向かう。望くんは「怒らんといてー」とまだくすくす笑いながら言うくせに、さりげなく私が使っていたカートを代わりに押してくれるものだからその自然な気遣いに感謝を伝えていいものか悩む。本当にしっかりした男の子だよなぁ、それを言葉をするのはちょっぴり照れ臭くて、私は気づいていないふりをすることにした。