解放と乾杯

顔を上げないように、真っ直ぐ足を進める。誰にも声をかけられないように。私はここから逃げるのだから。
重い従業員用通路扉を開けると清々しい風が私の身を包んだ。思わず顔を上げ、その空の青さに言葉が漏れる。

「終わった…」

様々なストレスから解放された。吸う空気がなんだか美味しいような気もする。どれだけ単純なんだと自嘲の笑いがこぼれた。

「ええ顔するやん」
「望くん…」

私を心配してついてきてくれた彼は、少し笑みを浮かべてそう言う。そんなに顔に出ていたかなと心配になり頬に触れると、彼はくつくつと低い声で笑った。

「ありがとうね、望くん。私一人じゃきっと同じことの繰り返しだった」
「せやな。まあ、そういうの気分良くないしな」
「だよね。本当にお世話になりました」

ずっとずっと重荷になっていたものから解放されると、清々しいのにどこか手持ち無沙汰で不安になる。足元も覚束なくて、なんだか夢見心地だ。これが徐々に慣れていけばいいのだけれど。

「とは言っても俺らの関係はまだ続くわけやし、これからどうしていくのかも考えんと」
「とは言っても、当分は休息するつもり。それからはまた頑張って仕事見つけて、みんなに恩返しするから」
「………うん」

気合いを入れ直す私に彼は曖昧に微笑んで、前を向く。何か変なことを言っただろうかと発言を振り返っても特にめぼしいことはない。だけれど直接聞くほど踏み込めるわけでもないし、私はモヤモヤをぐっとこらえてその背中を追いかけた。




「ほら、飲んでええから」
「いやいやいやいや。のめないよ…」

二人で夕食をとった後、彼が私に出して来たのはビールの缶だった。今日はお祝いの日だからと買ってくれたらしいのだが、お酒は娯楽に位置されるだろうし、流石に申し訳ない。

「えーって。せっかく買ったんやし飲んでよ。俺、まだビール美味しく飲めへんから」
「えー……でも」
「ちゃんと自分用にはチューハイ買って来たし、一緒に飲もうや」
「それは嬉しいんだけど…」

お酒なんてしばらく飲んでいなかったし、飲みたくないと言ったら嘘になるし、チューハイの缶を悪戯っぽく取り出した彼になぁ?と可愛く見つめられたら、これは断るわけにもいかず…。

「じゃあ…」
「うっし!じゃあ、ほら!」
「う、うん…」

半ば押し付けられたビールのプルタブを持ち上げる。カシュっという独特のいい音に少し嬉しくなってしまう自分がいた。望くんも私に続いてチューハイのプルタブを持ち上げる。私たちは一瞬見つめ合うとどちらからともなく口角を上げて、その缶を軽くぶつけ合った。

「乾杯!!」

重なる声に楽しくなりながら缶を呷る。特徴的な苦味、喉を潤すそのキレのいい喉越しに体中が喜ぶ。ああ、やっぱりお酒って最高だ。

「んーーっ!!うまい!!」
「めっちゃ美味しそうに飲むなぁ!!」
「うわーー、ごめん本当におっさん女で…!ビール最高…!!」
「全然!俺は好きやけどなぁ、ビール美味しそうに飲む子」
「んっ、ごほっ」

彼の不特定多数に向けられた好きという言葉にドキッとしてしまって思わずむせると、彼は「え、どうしたん!?」と不思議そうな面持ちだ。口元をぬぐいながら「大丈夫…」と告げるが彼は心配そうに眉根を寄せた。
敏感になりすぎだ、私。恥ずかしい…。

「でも、よく私がビール好きって知ってたね?」
「ん?だって、ビールのCM流れるたびに「美味しそう」て言うてるし、買い物行ってもビールをじーっと見てるし。気づくっしょ、普通」
「え…?そんな感じだった?私…」
「そんな感じやったって。わかりやすくて助かったわー」

まさか無意識にそんなことを言っていたとは…。あまりにも可愛くない自分の発言に羞恥がこみ上げる。多分耳まで真っ赤だ。

「何も考えてなかったんだけど…めちゃくちゃビール飲みたい人だよね…ごめん…恥ずかしい……」
「なんで謝るん?ええやんええやん。かわいいよ」
「ぐっ、ふ」

だから何度言われても、いくら意識しても超自然な「かわいい」や「好き」には慣れることができないのだ。また吹き出す私に今度の彼はケラケラと笑っていた。末恐ろしい子だ…年下だと思って侮っていたらずっとこんな状態だろう。きっと今の彼は分かってやってる。

「もー…やめてよ望くん…」
「えー?何が??俺全然わからへんわー」
「白々しい!ほんまに勘弁して…」
「「ほんまに」…やって。関西弁出てもうてるやん」
「うぅ…」

接客業をやるにあたって丁寧に矯正した関西弁が溢れてしまうほど今の私が焦っていることを、きっと彼は気付いただろう。「えー、可愛いのになぁ」なんて呟く彼の声に逐一反応してしまうのが嫌で、私は残りのビールを一気に飲み干す。もういっそ酔ってしまえば全部忘れられるだろうと2本目に手を伸ばすと、彼は「おーいくやん!」とチューハイに小さく口をつけた。

「おっさん女だから!ビール大好きだから!!」
「いっぱい買ってあるで飲んでってな?」
「任せて!!」

2本目をまるで水のように半分ほど一息に飲み干す。机にはまだ中身が入ったビールが4本並んでいた。一人暮らしの時にもこんなに一気に飲んだことはないが、お酒には強い方だし、多分大丈夫だろう。




「えーっと…大丈夫?」
「んー……」

5本目のビールを飲む私よりも先に潰れたのは望くんだった。彼は数本チューハイを飲んだと思ったら机の上をせわしなく整理し始め、それが一区切りついたと思ったら私にぴったりとくっついてきて「眠い…」と呟いた。私に合わせて結構な勢いで飲んでいたみたいだし、酔ってしまうのも頷ける。

「望くん?お風呂は?」
「寝る…」
「ちょっと、ここではダメだよ!?」
「んーん」
「え、待って!」

彼はその大きな体でぎゅうと抱きついてきたと思ったらそのままソファに倒れこむ。止める隙なんてあったものじゃないその行動に、恥ずかしさよりも母性が湧いてきた。こう言う無防備なところはまだまだ全然子供なんだなって笑える。

「はまちゃん…」
「はまちゃんじゃないからね??」

彼の虚ろな言葉に少し心配になるが、はまちゃんと勘違いするほどリラックスしてくれているんだと思えばまあ悪くない。つい口から漏れた「仕方ないなぁ…」はきっと彼には届いていないが、それでもいいかと私は瞼を下ろした。