逃避と安堵

朝起きて真っ先に思ったことが「会社に行かなきゃ」だった。携帯のアラームを片手で止めて、ぼーとする頭で部屋を出る。なんだか見覚えのない場所だと思いながら適当に扉を開けると、床に布団を敷いて寝ているはまちゃんを目にして一気に意識がはっきりとして行く。そうか、私昨日この男たちに自殺を止められたんだ。

「馬鹿らしい……」

そう呟いて彼の枕元に崩れ落ちる。もう会社になんて行きたくないと死を選んだはずなのに、その翌日にはしっかり出勤に合わせた時間に起きている。何もかもが惨めに感じられ乾いた笑みがこぼれた。そうこうするうちに出社の時間が近づいて行く。

「なんで…」

なんでこんなにも時間を気にしてしまうのだろう。行かなきゃと思ってしまうのだろう。着替えなきゃ、会社に向かう途中のコンビニで適当な朝食を買って、タイムカードを切って……?そんな朝のローテーションを脳内で繰り返しているとなんだかじんわり涙が滲んでくる。何が悲しくてこんなことを考えているのだろう。ああ、また1分過ぎた。


「泣かんといて……」
「え…?」

そんな声が聞こえたと思ったらぐいっと手首を引かれた。背中に回される太い腕と大きな手のひら。じんわり広がる温もりに鼓動が早まっていたことに気づいた。彼はまだ意識がはっきりしていないのか、ぼんやりとした口調で言う。

「きょうはぁ……オフやから、もうちょっとゆっくりしよ…?そしたらお昼食べに行って…、買い物いこ……」
「……うん」

今はこの距離感がすごくありがたい。気にしなくていいんだと言ってくれるその強引な優しさが、多分私に必要なものだったのだろう。うわ言のように何度も「大丈夫やから…」と言う彼につられて瞼を下ろす。誰かと寝るなんていつぶりだろうか。親と一緒に寝た記憶もはるかかなただ。どんな感情よりも安心感が優って、私は彼の腕の中でいまだに残るまどろみに意識を委ねることにした。




「これ……大丈夫?」
「いや、でもこれしかないし……」

そのまま出社時間を寝て過ごした私はお昼前にゆるゆると起きることになる。無断欠勤の私にほわほわと笑ったはまちゃんは「よくできました」なんて褒めてくるものだからなかなか意地悪な男だと思う。
それから外に出ようという話になったのはいいのだけれど、いかんせん私には外に出るための服がない。仕方がないからはまちゃんの服を借りることになったのだがバカみたいにサイズが合わなくて少し笑えた。上はどうにかなるのだが、パンツの股下とウエストサイズが合わず、仕方なく大ぶりのパーカーをワンピースのようにして着る。なんだか付き合いたてのカップルのようでめちゃくちゃ恥ずかしい。はまちゃんはニコニコ笑って「かわいい」しか言わないし、もう学生じゃないんだからこういうのは今日限りにしたいものだ。

お昼ははまちゃんに連れられてマンションから近い定食屋さんで食べて、服や生活用品を求めて街のショッピングモールに向かう。あまり長居して見つかるのもよくないので悩まず着やすいものや使いやすいものを選んで行く。流石にラグジュアリーショップまでついてこようとしたときは止めたけれど。お金はもちろんはまちゃん持ちなのだし、そもそもそういう前提で話が進んでいたというのにいざとなるとやっぱり申し訳なくなってしまって、ペコペコと何度も頭を下げた。
彼は包容力が本当にすごい。単純にモテるだろうなぁと思うし、しかも気づいてなさそうだ。
ひとしきり物が揃ったらショッピングモールの一階にある食品売り場で夕飯の買い出しをする。家の冷蔵庫にはほとんど何も入っていなかったし、自炊はできるけれどめんどくさくてやらないタイプだとはまちゃんは照れたように言っていた。お礼……なんていい方が正しいのかは分からないが、住む場所とお金を頂いている以上何も返さないわけにはいかないため、家事を任せてほしいと申し出たらめちゃくちゃに感謝されて少しくすぐったい。久しぶりに感じる「求められる」という感覚は癖になってしまいそうだ。

目的のものを全て買い終えた私たちは早足でショッピングモールを出た。大量の買い物袋を両脇に抱えたはまちゃんの背中を追いかける。撫で肩から手持ちが滑り落ちないように少し肩を挙げている姿が可愛く見えた。

「ごめん、本当にありがとう」

地下駐車場に停めた車に荷物を詰めて行く。今日何度目かの謝罪に彼は声を出して笑う。

「俺がやりたくてやってることやし、そんな顔せんでええよ」

気にしぃやなぁ、と言った彼は後部座席と助手席に荷物を乗せ終わったようで運転席後ろのドアを開けてくれる。私が座れるように開けてくれたスペースに乗り込み「なんだか大女優みたい」とひとりごちた。
もしもの時のために助手席には乗れない。後部座席のカーテンを全部引ききって顔を伏せる。行きもこのスタイルだった。私のせいで誌面に載るなんてごめんである。そこら辺危機感のなさそうなはまちゃんの代わりに私がしっかりしないと。

「それにしても家事をやってくれるのは助かるわぁ。俺の家、まぁもう見た通りで……」
「いや、私の想像していた成人男性の部屋って感じでむしろ安心したけど」
「どこで安心してんねん」

伏せられた頭にそんな笑い声がかかる。なんとなくどんな顔で笑っているのかが想像できてくすりと笑ってしまう。まだ1日も経っていないのに自然と笑えている自分にどこか安心していた。