休暇と不安
「いやぁ、大漁やったなぁ」
ホクホク笑顔のはまちゃんは手にしていた釣り具を後部座席に横にする。はまちゃんの家に来てから5日目、私は彼の趣味だというバス釣りについて来ていた。竿も貸してもらってちょっとやってみたが、思った以上にかかりがよく、彼にすごく助けてもらってしまった。この日は運が良かったのか大漁で、はまちゃんも楽しそうだったし、連れてきてよかったと言われて少し安心する。私がいるせいで趣味を制限してしまったら申し訳なかったし、こうやって外に出るのは気分転換にもなる。それに……私も楽しかったし。
私は釣具でいっぱいの後部座席を避けて助手席に座る。こればかりはどうしようもなかった。せめてものカモフラージュでブランケットを頭からかぶると右隣から「やっぱそのスタイルやねんな」と笑われる。実は行きもこうだったし、なんならはまちゃんにはお腹を抱えて爆笑された。
「仕方ないでしょ。絶対譲らないから」
「ひひひ…っ、ブランケットがもごもごしてるぅ」
はまちゃんはシートベルトをカチリとはめながら堪えた笑い声をこぼした。「前見て〜」と返せば「はぁい」と間延びした舌足らずな返答が来る。はまちゃんの声は優しくて大好きだ。
「行きもそうやったけど、帰りも時間かかるし寝とってええからね」
「んー……ありがとう」
私は薄明かりの漏れるブランケットの中で瞼を下ろす。適度に傾けたシートに背中を預けてゆっくり息を吐き出すと、溜まっていた疲れからかみるみるうちに意識が浮かんで行く。これなら寝れそうだ。
微睡みの中でまぶたを持ち上げると、私の体はずぷずぷと沈んで行く。何事だと周囲を見ると、そこは漆黒の沼のような場所だった。
−−なんで……っ
焦りからかうまく声が出ない。助けを求めようと手を伸ばしても誰もつかんでくれない。嫌だ。嫌だ。落ちたくない。溺れたくない。怖い。嫌だ。
−−怖い……怖いっ
首元を漆黒のなにかが這う。このまま引き摺り下ろされるのだろうか。
それは死ぬという感覚とは少し違った。恐怖に侵食されるような不気味なもの。喰われてしまう、というのが一番しっくりきた。
バケモノに喰われる。
何者でもなくなる。
消えて無くなる。
「………………っ」
震える私に向けた誰かの声がする。その声の元を探そうと真っ直ぐ上を見上げると、光を帯びたカーテンのようなものが私に垂れていた。それを慌てて掴むとカーテンは人の手の形に変化していく。大きな手のひらと確かな温もり。
「……っ、静久……っ」
ああ、聞いたことがある。
この声ははまちゃんの声だ。優しくて暖かな声。低くて舌足らずで落ち着いた声。それに気づいた時には私は沼から出ていた。その代わりに足首が水に浸かっている。
海だ。それはすぐにわかった。これは海だ。
「はまちゃん……」
開いているのか閉じているのかわからない目に光が差す。そこには心配そうな表情の彼がいた。車内ではない。彼の部屋のソファの上だ。
「私……」
体が重く、頭が痛い。何があったのかいまいち理解が及ばなかった。
「いきなり苦しそうになるから心配やってんけど……」
「はまちゃんが運んでくれたの?」
「せやで。初めてのことで疲れたんやろね、ぐっすりやったから」
抱えられても起きないなんて、本当にぐっすりだったのだろう。さっきの悪夢で唸ってしまったのならそれは悪いことをしてしまった。驚かせただろう。
「はまちゃん……水ちょうだい?」
「あ、うん!」
ひどい倦怠感と疲労感。喉はカラカラで指先は冷え切っていた。
逃げているのは私なのに、なぜ自分で苦しまなければならない。責任感というものか。そんなもの今更じゃないか。そんなものがあるのなら私は死のうと思っていない。そのはずなのに。
「はい、水」
「ありがとう……」
受け取ったグラスに口をつけてゆっくり傾ける。カラカラの喉にじんわり染み込んで体が喜ぶ。素直に美味しいと感じた。はまちゃんはずっと心配そうに私を見ている。ただ深くは聞かないのはきっと彼なりの優しさなのであろう。
私は多分、聞かれたくて仕方なかった。
自分から話したくないけれど、本当は話したくて、聞いてほしくて、吐き出してしまいたくて、同情してほしくて、心配されたくて、弱さを受け入れてもらいたくて。
だから聞いて欲しいのに、絶対に彼は聞いてくれないだろうことはわかっていて、だからこれは全部独りよがりで一方的なエゴに過ぎない。彼がもっと非情で、悲しみに鈍感であればよっぽど救われたのに。私は静かに首を振る。それはあまりにも酷すぎる願いだ。
「ごめん……もう大丈夫」
うんとこらえて吐き出した言葉は震えておりなんだか笑えた。はまちゃんは「どうしたらいいのだろう」という顔で「あ……えっと……」と溢してから、「なら、良かった」と無理矢理に笑顔を浮かべる。そんなにわかりやすい作り笑顔があるだろうかというほどの不器用な笑みで、少しだけ心が軽くなる。こんなことで「ああ、この人は真剣に寄り添ってくれているんだ」と安心している自分を私は好きになれそうになかった。