怒
怒
旅をすることに慣れてきた頃というのが一番危ないのかも知れない。
前日はひどいどしゃ降りで、その日私と冨岡さんは山越えをしていた。季節は春で、山の獣たちが活発に動き出す季節だった。
山の中腹辺りを歩いていた時、斜面の下に熊の親子を見つけたのだ。
「……!」
驚き、だが声を出したら熊に襲われるのは明らかだったため、私は口許を両手で覆い、声を飲み込んだ。
「いくぞ」
冨岡さんの口がそう動き、私は忍び足でその場から歩き出す。
冨岡さんは相変わらず冷静で無表情で、いつもと変わらぬ足取りで歩いていた。私もそんな冨岡さんの後ろに続いたのだが、私の足は昨日の雨で抜かるんだ地面に掬われた。
「きゃっ!?」
掬われた足は斜面へと滑り、体勢が崩れた。斜面の下にいた熊が私に気づき牙を剥いている。
空、地面、熊がぐるぐると交互に見えて、私が斜面を転がっていることに漸く気づく。だが気づいても斜面を転がる体をどうにか出来るわけもなく、やがて私の脳裏に色々な映像が浮かんだ。それは恐らく走馬灯というもので、死んだ父や母、弟の顔が鮮明に写った。
熊がぐおお、と鳴き声をあげた。私のすぐ近くで。
「このっ」
遠くに冨岡さんの声が聞こえた気がした。
走馬灯は相変わらず私の脳裏に色々な映像を見せた。どれも楽しい思い出ばかりだ。そう、その筈だったのに。
「馬鹿がっ!」
走馬灯の最後に見えたのは無愛想で無表情な冨岡さんだった。
それと同時、今度ははっきり冨岡さんの声が聞こえた。そして私の走馬灯は消えて、私の目の前に鬼のような顔をした冨岡さんがいた。
冨岡さんは私を抱き上げて、あの斜面から遠くに私を助け出してくれたようだ。熊の鳴き声が遠くに響く。
「冨岡さ、……」
「お前は! 油断しすぎだ!」
こんな風に怒鳴られたのは初めての事だ。あの物静かな冨岡さんが苛烈になるところなんて。
ぼろぼろ、と涙が溢れていた。言われなくても反省している。今のは確かに私が悪い。山道を甘く見ていた。
「泣いたって俺は赦さないからな」
「うっ、だって私っ」
未だに冨岡さんは私を横抱きにしていて、私の顔についた泥を羽織の袖で拭ってくれている。怒っている筈なのに、行動は私を労るものだった。
「冨岡さん、下ろしてください」
「……その前に俺に言うことがあるだろう」
「……? ごめんなさい?」
「違う」
だったら何だと言うのだろうか。冨岡さんは怒っていて、私を赦さないと言っていた。それならば、赦しを請うのが道理だ。だが冨岡さんは違うと言う。
相変わらず冨岡さんは私をつり上がった目で見ている。
「冨岡さん、ごめんなさい」
「違う。『有難う』だ」
「え……」
「言えないのか?」
「あ、有難うございます」
言われた通りにお礼を言えば、冨岡さんは漸く私を地面に下ろしてくれた。身体中が打ち身でいたい。
「全く。先を急ぐぞ」
それでも冨岡さんは私の身体なんか労ってわくれなかった。尤も、この山の中の危険から一刻も早く私を連れ出したいと思っていたらしいが、そんなこと私が気づくわけもなかった。
170607