あの紫陽花にこの声は届かない




いつの間にか梅雨入りした空は、その日も変わらず雨を降らしていた。
四季というものは優衣にとって感じるものではなく、ただ眺めているだけのものだったのだが……

「ねぇ、今日も差し入れないのー?」

バスケ部のマネージャーになってから、その変化は訪れた。
人すらもただ流れていく景色のようだった日々に、はっきりと主張する色が出てきたのだ。

たとえば、毎日のように昼休憩になると優衣の教室に顔を出し、開口一番、差し入れの確認をしてくる彼。

「……アツシくん。随分な聞き方するね」

座った状態で見上げると首が痛くなる彼に、痛さを我慢して見上げた優衣は呆れた様子で返事をした。

紫原の催促はマネージャーになった翌日から始まった。
最初こそ「差し入れある?」という確認だったのだが、気付けばさも持ってきていることが当然と言うように差し入れは何かと聞くようになった。
しかしマネージャーになってからは早朝練習や放課後の部活に限らず、自主練習にも立ち会っている。
そのため、優衣は一日の時間配分にお菓子作りの時間を入れられないでいた。
差し入れは不慣れな日々が落ち着いてから、と考えていた優衣は、彼に「ない」の一言を言うだけで相手にしなかった。

それが今日、ついに彼はその言葉であからさまな不満を伝えてきた。

「……今日は、まぁ……あるけど」
「ほんとに!?」

大きな身体に不機嫌気味に見下ろされるのは気分がいいものではなく、歯切れ悪く答える。
すると、紫原は気だるそうにしていた目をパッと開いて、輝かしい笑顔を浮かべた。
そろそろ限界がくるだろうと予想していた優衣は、内心作ってきていて良かったと胸を撫で下ろした。

「どんなお菓子?」
「………ドーナツ」

意気揚々と問いかける紫原に、優衣は単語だけで返す。
彼の顔が、すぐ目の前にあったからだ。
しゃがみ込んだ紫原は目を煌めかせながら首を傾げて問いかけてきた。
その姿がまさにおやつをねだる子供のような仕草で、可愛い、などと思えてしまったのだ。
大きな男に僅かでもきゅんっとしてしまったことに腑に落ちないでいると、徐に彼は動き出した。

「チョコレート?」

耳元で響く、彼の声。
またやられた、と後悔してももう遅い。

膝をつき優衣が座る椅子の背もたれに手をかけると、彼は距離を縮めて躊躇なく自分の鼻先を優衣の首筋へと埋めた。
すんすん、と鼻をひくつかせている音が近くで響き、大型犬の子どもみたいだな、と思いながら少し椅子を下げて距離を取ろうとする。
それでも離れる様子のない彼に、優衣は正解とは口にせず小さく首を縦に振るだけで答えた。

「なにをしている、紫原」

不意に、隣の席の方から声がした。

「あれ、赤ちんだー」

声に反応した紫原は振り返り、声の主にへらりと笑いかけた。
大きな身体に視界を邪魔されていた優衣は、彼が動いたことでやっとその人物を視界に捉える。

「おかえり、征。早かったね」

部のミーティングを済ませてきた赤司に声を掛けると、やっと目が合った。
だがその視線はすぐに外される。

「連絡事項の伝達だけだったからな。それで、紫原は何をしていたんだ?」

赤司は先程から、冷ややかな視線を紫原へと向けていた。

「チョコレート当てた!」
「……あぁ…………そうか」

しかし、紫原の返事に赤司は何か言いたそうにするも口を閉ざした。
苦言を飲み込み僅かに眉をひそめるだけで、それでも心情だけは隠す気がないのか、溜息交じりに代わりの言葉を一言残した。

(えー、諦めないでほしかったなー……)

赤司のそんな仕草も、優衣の心境も、どちらも気にすることなく、紫原はまた優衣に向き直ると輝く目で見つめてきた。
何事かと思いまたも椅子を下げた時だった。

長い手が伸びてきて、優衣のほっぺたをぷにぷにと摘みながら彼は口を開いた。

「キャンディーは?マシュマロでもいいけど〜」

ぼーっとした表情で人の頬を弄ぶ目の前の大男に、色々と言ってやりたいことがあった優衣だが、静かに言葉を飲み込んだ。
今なら赤司の気持ちがよく分かる。

彼のユルさは今に始まったことじゃないだろうし、とひとり納得して、制服のポケットをまさぐる。

「マシュマロはないから、今回もアメちゃんだけど、いい?」

目的のものを掴んだ手は迷うことなく紫原に向かって差し出された。
間延びした声で、「ありがとー」と言って彼はそのキャンディーを受け取る。
どうやら差し入れを当てるとご褒美が貰えると思っているような紫原の行動に、ついつい溜息を吐き出した。
嬉しそうにキャンディーを頬張る男を見て、なんてユルいんだろうと、優衣はその光景を他人事のように見ていた。






──────それが今。
彼は剣呑な雰囲気を作り出して体育館の空気を凍らし、優衣を困惑させていた。

昼休憩の時のような緩い空気を、今の彼からは微塵も感じることが出来ない。
部活が始まり、最初はいつもと変わらない様子の彼がいたのに───。



それは全体練習が終わり、各自で自主練習を始めるという時だった。
優衣は見学していた時に見ていた赤司に習って、全体練習が終わってから差し入れを渡した。
皆当たり前のようにしているが自主練習は自己判断で強制ではないため、用事があれば帰る部員もいるからだ。
自主練習を始める前にひと時の休憩を挟む部員に、優衣は差し入れのドーナツを手渡して回った。
しかしひとりだけ、差し入れを受け取らなかった部員がいた。

彼は赤司たちと同じ時期に一軍に昇格した二年生らしく、少しでも多く練習がしたいと休憩も取らずそのまま練習を続けた。
そして、そんな彼に対して紫原は言い放ったのだ。

「才能ないんだし、練習して意味あんの?」

昼間のような気怠げな様子は変わらないのに、そこにいる彼は別人のようにピリピリとした空気を纏っている。
その雰囲気に飲み込まれそうになりながらも、二年生の部員が挑発するように言葉を返した。

「俺にレギュラー奪われるってビビってんのか?まぁすぐに引き摺り下ろしてやるよ」
「へぇー、どうやって?」

剣呑な物言いは普段の紫原からは想像できないものだった。

「お前らより練習してもっと上手くなって、それで、」
「なにそれ。その才能でがんばれば上手くなるとか思ってんの?」
「なっ……!」

先輩である部員に対して臆するどころか上からの態度を示す紫原に、その部員はこめかみをひくつかせる。
しかし先程よりも低い声で、彼は言い放った。

「ウザイんだよね、アンタみたいな奴」

静まり返る体育館で、ボールの跳ねる音だけが響き渡る。
誰もその空間を壊せず、ただ二人を見つめるだけで動かない。
静寂の中に広がる動揺を感じ取りながら、優衣もまたどうしようかと身動きが取れずにいた。
彼の手から放たれるボールだけが、床に打ち付けられ音をたてる。

「オレからボールもとれないで、レギュラー奪う?」

ボールをつきながら、紫原は呆れたように続ける。

「バスケなんて不公平なスポーツ、頑張ったってどうにもならないし」

そしていつもと変わらない半開きの目は鋭さを持ち、その態度はあからさまに見下していた。

「がんばるとかダルいし。それで報われないとか、超ダサいじゃん」

その言葉の最後に強く突かれたボールは、一際大きな音を立てて高く跳ね上がった。
そしてそれは徐々に響かせる音の間隔を狭めて、体育館の隅へと転がっていった。

「この野郎っ……!」

気がつけば紫原が胸ぐらを掴まれている光景が目に入り、優衣はとっさに駆け寄ろうとした。

「そこまでだ」

凛とした声が、体育館に響いた。
後ろから聞こえた声に、優衣は身体の力が抜けるのを感じ、安心したのだと気づく。
初めて見る紫原の雰囲気に、少なからず気圧されていたのだろう。

「コーチや主将がいたらペナルティーだったな」

淡々とそう述べるのは赤司だ。
優衣は紫原たちからやっと視線を逸らし、息をつきながら動かしていた足を転がったボールの元へと向けた。

赤司の言葉に二年生部員は小さく舌打ちをして、乱暴に自分の上着を取るとそのまま体育館を後にした。
対して紫原は、余った差し入れのお菓子に手を伸ばすと、のんびりとした様子で優衣を見やった。

「優衣ちん、これ貰うね〜」

そう言ってひらひらと手を降り、彼もまた体育館から出て行ってしまった。

「今日は機嫌悪かったもんなーあいつ」
「お菓子落としたっつって部活前にすげー顔してたぞ」

動きを止めていた部員たちが話すのは紫原のことだろうか。
いつもと変わらない様子だと思っていたが、彼の変化に気づかないくらい、自分には余裕がなかったのか、それとも余裕だと奢っていたのか……。
皆が動き出す中、優衣はボールを持ったまま紫原の後ろ姿を見つめ動けずにいた。



───彼にとってバスケットボールなんて娯楽のひとつでもないのだろう。
ただやってみたら評価されたからやっているだけ。
興味がなくても出来てしまう彼にとって、努力や気持ちといった精神論は意味がない。
彼は掴めてしまえるんだ、求めなくても……。

興味があってもなにも出来なかった自分が、ひどく滑稽に思えた。
努力をしても、求めるものを掴むことは出来なかった。
そのうち興味を無くしたフリをして、何もかも手放した。

しかし彼は、さらっと好きなお菓子だって手にして行った。
そういう人間もいるのだ、それなら、私のような人間もいるだろう。
ならば私は、大人しく人と関わらずにいればいいんじゃないだろうか。

何を見ていたんだろう。
何を夢見ていたんだろう。

もう、何も求めずにいたほうが─────。






気がつけばボールは手から離れていて、後ろからそれが跳ねる音が聞こえてきた。

優衣は紫原の後を追って体育館を出ていた。
気怠そうに歩く彼の後ろ姿を見ながら、なぜ追いかけているのだろうと自分に問いかけていた。

「アツシくん……っ!」

それでも、無意識に彼の名を呼んでいた。

「あれー。どうしたの、優衣ちん」

先程の剣呑さなど微塵もなく、いつもの緩い雰囲気をまとった紫原はお菓子を頬張りながら振り返った。
彼を見上げて立ち止まった優衣は、どうするつもりだったのか自分でも分からず押し黙った。
彼にあれこれ言っても仕方が無い。
それでも優衣は何かを伝えたかった。

自分を、否定してほしくなかった。

「頑張っても、報われなくても、ダサくても、自分が良しとするならそれでもいいよね」

出てくる言葉は、自分を正当化させるための言い訳。

「それって夢とか目標ってのが、意味ないってことじゃん」
「それでも……自分の可能性を自分で狭めたくない」
「可能性? 才能なんて元々決まってるものだし、可能性なんか最初からないじゃん」
「アツシくんは、結果が伴わなかったら全部意味がないの?」
「ないよ。結果なんて最初から決まってる。出来る奴は出来るし、出来ない奴はなにしても無理でしょ」
「努力して叶うことだってあるよ!」

(わたしは、何を必死になっているんだろう……)

不意に冷静になり、自分を呆れるように内から見つめる自分に気づく。
すると、目の前の彼からも、冷たい視線を落とされていた。

「優衣ちんって意外と熱血系? ウザいんだよね、そーゆーの」

最後の一口を放り込んだ彼は、「差し入れご馳走さまー」という呑気な言葉を残して歩き出した。
頑張れば叶うと信じたい、という希望は、彼の言葉で簡単に崩れ去った。












あの陽花に
   このは届かない













外は雨。

それは鮮やかに咲き誇る紫陽花を濡らし、キラキラと輝かせる。

綺麗に紫色に染まった花を見て、つい先ほどの視線を思い出す。

瞬間、頬に落とされた、冷たい感覚。



鮮やかな花から零れ落ちる雫を

ただひとり、見つめることしか出来なかった────。







−−−−−−−−−−−−−−−
分かってる、でも、認めたくない。
2018/11/07(2013.01.15)

Clap!


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