「なまえ、トッカリを捌くから手伝え」
「はい、アシㇼパさん」

先ほど見事一撃で気絶させたアザラシをてきぱきと解体していくアシㇼパさん。時折り作業に加わらせてもらいながら、初めて見る一連の流れを観察する。なんだか一緒に山に入っていた頃を思い出して、懐かしく温かい気持ちになる。

一作業終えて早速アザラシを食べるために全員で鍋を囲んでいたら、突然アシㇼパさんが「わああああ!!」と悲痛な声を上げながら後ろへ倒れこむので慌てて背中を支える。「どうしたの?」と杉元さんが聞けば常備していたニリンソウがなくなってしまったそうで、とんでもなく落ち込んでいる。アザラシは北海道でも小樽や日高にはめったに現れないと言っていたから、余計にショックらしい。

「なまえ、なまえ、ニリンソウは…?」
「すみません、コタンで分けてもらうの忘れちゃいました…」
「あああっ…!!」

最後の頼みの綱とばかりに私へ延ばされたアシㇼパさんの手が砂を掴み、「オヤジがのっぺらぼうだって言われた時より落ち込んでるじゃねえか」と白石さんが呟く。結局アザラシは素朴ながらも大変美味しく塩茹でにして頂戴したけど、どれだけ口を揃えて称賛してもアシㇼパさんの機嫌は治らなかった。なんだってニリンソウ忘れたんだ私の大馬鹿野郎。


札幌で白石さんが仕入れていた情報によると、奇妙な入れ墨を入れた男性が日高にいるアメリカという異国から来た“ダン”という男性に会おうとしていたそうで、その情報を頼りに私たちは苫小牧から日高に移動していた。

アザラシを食べた海岸から川を辿れば、上流にあるフチさんの姉上、アシㇼパさんの大伯母様に当たる方の住むコタンに着いた。
アシㇼパさんと再開の挨拶を交わし微笑む顔はフチさんとよく似ていらして、まだ別れて半月程度なのに少し寂しくなる。

ところがアシㇼパさんと杉元さんが先ほど仕留めたアザラシの肉と皮をお土産だと見せたところ、大伯母様はポロポロと泣き出してしまわれた。とりあえずチセの中にお邪魔して落ち着いていただき、アシㇼパさんが訳を尋ねる。

アシㇼパさんの通訳によれば、フチさんたちの家には代々女性に受け継がれてきたアザラシの皮で拵えた服があったそうだ。ところが大伯母様が娘さんに譲られたその服を、酒と博打好きな娘さんの夫が30円で売り払い蒸発してしまったのだという。


「ひどい…許せない」
「……」

白石さんが険しい顔で呟く。同じ酒と博打好きでもそこは越えてはいけない一線らしい。発言自体には非常に同意するのだけど、なんだか喉元につかえるものがある。

「フチの家に伝わっていたものなら私にとっても大切なものだ。私が買い戻してくる」

アシㇼパさんの言葉に反対する声はなく、そのまま近くで牧場を経営しているエディー・ダンというアメリカ人のもとに向かった。白石さんの仕入れた話に出てくる男の情報とも限りなく一致しているし、無関係ではなさそうだ。



牧場を訪れ、通された客間には床に敷かれた白と黒の動物の毛皮をはじめ、見たことのない調度品であふれていた。
特に壁に飾られた鹿の頭はどうみても本物にしか見えなくて、部屋に入った瞬間壁から鹿が顔を出している光景に変な声を出してしまい、その場にいた全員の視線を集めることになってしまった。着席してから出されたお茶は濃い茶色で豆を炒ったようないい香りがして、毒味も兼ねて先ほどの恥ずかしさを誤魔化すために早速一口すすってみたら予想以上に熱くて苦くて、そっと残りを机に戻した。

私がふざけたことをしている間にアシㇼパさんがダンさんに事情を説明して、アザラシの服を返してほしいと伝える。勿論、対価として支払った30円も返すと。

「30円?100円じゃなかったかなあ?」

あ、完全に足元を見られている。客間の空気がガラリと変わるのを肌で感じた。

「…ダンさんよ。戦争ってどういう時に起こるか知ってるかい?
舐めた要求を吹っ掛けられて交渉が決裂した時だ」

ひと際不穏な空気を放つ杉元さんが、うっすらと笑みを浮かべてダンさんに話しかける。その場にいるだけの私でさえ背筋に寒気を感じるのに、さすがあれだけの交渉を持ちかけただけのことはあるというべきか、顔色一つ変えずにダンさんは口を開いた。

「モンスターを斃せたらアザラシ皮の服を返そう」

そのまま続いたダンさんの話によれば、ダンさんの牧場に“もんすたあ”とやらが現れ、馬を襲っているらしい。その死体を持って来れば、アザラシ皮の服を30円で返すと提案してきた。

「も…もんすたー?」

唯一理解できなかった単語を、白石さんが疑問調で口にする。どうやら白石さんにも耳慣れない言葉らしい。
そしてちゃっかり30円は回収しようとしているあたり商魂逞しいなダンさん。

「いいから、さっさと、返せよオッサン」

けれど杉元さんは引かない。
一触即発の空気が部屋に満ちたちょうどその時、牧場の従業員らしき人物が慌てて部屋に飛び込んできた。牧場にそのもんすたあ──怪物が現れたらしい。

ひとまず話は中断となりその場にいた全員で現場に向かうと、馬が襲われたらしい場所には点々と続く血痕と足跡があった。

「この足跡は…」
「……ああ、なるほど」

アシㇼパさんの横から覗き込んで見てみれば、そこには見慣れた足跡。指の数や形を見分けなくても、その類ない大きさだけで分かる正体。
不意に叫んだ白石さんの指さす方を見れば、森へと入ろうとしている影。

「怪物なんかじゃない」

そこには手負いの馬を背中に担いだ、大きな赤毛のヒグマがいた。

「杉元撃て!弓じゃ届かない」
「シライシどけッ!」

アシㇼパさんの指示で杉元さんが素早くヒグマに向けて銃を構え、銃口を向けられた白石さんが慌てて後ろに避けた。

「わっ」
「わああっ!」
「アシㇼパさーんっ!!」

そのままバランスを崩した白石さんは、あろうことかアシㇼパさんの顔の上に尻餅をついた。

「ケツー!!」
「あああ白石さんすみませんッ!!」
「おわぁ!?」

咄嗟に白石さんの体を掴んで、何もない場所へ思いっきり転がしてアシㇼパさんを救出する。起き上がったアシㇼパさんは文字通り白石さんの尻に敷かれたことに大変ご立腹ではあるものの、目立った怪我はなさそうでほっとした。ひっくり返って自分の股の間からもの言いたげな目でこちらを見ている白石さんにも怪我はなさそうだ。よかったよかった。

結局その騒動の間にヒグマは銃弾に驚いて逃げてしまい、アシㇼパさんがダンさんとの取引を引き受けることを承諾してヒグマを追うため森に入ることになった。

するとダンさんは、干からびた肉片が付いたままのヒグマの指を見せてきた。それは去年の夏に牧場に現れたヒグマから銃で吹き飛ばしたもので、それ以前には片目を撃ち抜いたこともあったそうだ。
でも今現れたヒグマには両目があったし、地面に残った足跡にも指が欠けた様子はない。
だからあのヒグマはモンスターなのだというダンさんの表情は真剣だった。


「白石はついてくるな、ドジだし邪魔なだけだ」とのアシㇼパさんの鶴の一声で、ヒグマ討伐には銃と毒矢を持っているアシㇼパさんと杉元さんと私、そして牧場の従業員さんが向かうことになった。
キロランケさんは白石さんのお守りも兼ねて、二人で森の向こうの空き家になった農家に待機することになった。

「アシㇼパさん、アメリカ人の馬が何頭食われようと知ったこっちゃない。こんなこと時間の無駄じゃないか?」
「じゃあどうするつもりだったんだ?アメリカ人も殺して服を奪うのか?」

鋭く返されたアシㇼパさんの言葉に、杉元さんは答えない。流石に命を奪うほどのことはしないと思うけど、杉元さんに任せればほぼ間違いなく血生臭い結果になったであろうことは、さっきの客間でのやり取りからも想像がついた。

「あのアザラシの服はフチたちの花嫁衣装だ。あの服はせめて血で穢したくない」

アシㇼパさんが言葉を切った後も、杉元さんは無言のままだった。


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