森の中は水芭蕉が沢山咲いていた。
季節は春とはいえ、この植物が雪の解けかけた地面から顔を出すと、もうすぐ訪れる暖かな日和が待ち遠しくなる。

途中で見つけた止め糞を頼りに森の中を捜索すると、食べかけの馬が埋められた土饅頭が見つかった。

その上に躊躇なく乗るアシㇼパさん。ヒグマにこちらを見つけさせ誘き寄せると杉元さんに説明しながら、弓に矢を番える。
この中で一番ヒグマ猟の経験があるアシㇼパさんの判断が最善なのは十分理解しているので、私も矢羽根の形から選び出した毒付きの矢を番えて矢尻を地面に向けた。

「…ん?」

鉢巻きを少し上げて視界を確保しながらふと感じた違和感に、もう一度アシㇼパさんの足元を見る。
今の今まで、てっきり止め糞を出したヒグマが戻ってきて馬を食べたのかと思っていたけど、よく見れば肉の表面は乾いて傷み始めている。でもさっき見つけた幹にへばり付いた止め糞は、アシㇼパさんが棒で弄っても崩れ落ちないくらいには水分の残る新しいものだった。
その矛盾は、既に気付いていた様子のアシㇼパさんの言葉で明確な疑問に変わる。

同じく杉元さんもその違和感に気付いた時、遠くに熊笹を押し分けながらかなりの速さでこちらに向かってくる赤毛が見えて、その場にいた全員が意識を向ける。私のすぐ近くにいた従業員さんの短い悲鳴が上がると同時に熊笹の中から右目の潰れた顔が現れて、ようやく察しの悪い頭に一つの答えが浮かんだ。

止め糞と土饅頭の持ち主は、同じヒグマじゃない。


直後、背後でミシリと湿気た枝の折れる音。
反射的に振り向くと、目の前で覆いかぶさるように立ち上がった赤毛のヒグマが大きく右手を振り上げていた。

「っ……!!」

咄嗟に上半身を前に向けて折り曲げれば、すぐ耳元で大きく空気の唸る音がした。背中に軽い衝撃を感じながらも、そのまま前転しつつ体の向きを変えて起き上がると同時に放った矢は、分厚い毛皮をかすってすぐ横の木に突き刺さる。指に挟んでいた二本目は前転の勢いで落としてしまって、苦々しい気持ちで急ぎ次の矢を取り出そうと背中に回した指が空を掴む。

……背中が、妙に軽い。

そう思った瞬間、空振りした前足を地面に付けたヒグマの足元から、バキャッ!と不快な音。嫌な確信を持って視線を下げれば、そこにはさっきまで背負っていた私の矢筒が、ヒグマの足の下で矢と一緒にベキベキに踏み潰されていた。

「…うっそぉ」
「ヒッ、こ、このっ……うわあッ!!」

一瞬思考が飛びかけたものの、従業員さんが銃を構えようとした動きに反応したヒグマに押し倒され、その悲鳴で我に帰る。

アシㇼパさんの無事を確認しようと姿を探せば、何故か矢を射ることなくヒグマの突進を避けて倒れ込んだ瞬間が目に入り、慌てて駆け寄ろうとした矢先に杉元さんが銃を撃ち込んでヒグマがアシㇼパさんから離れる。
杉元さんがアシㇼパさんに駆け寄るのを確認して、従業員さんの加勢に入ろうと手から落としたはずの毒矢を探すけど見つからない。ふと矢筒の残骸の側に折れていない矢を見つけて掴んだものの、毒の付いていない矢で思わず舌打ちしてしまう。ほんっっとについてない。

「一度に二頭相手は無理だ!一旦引くぞッ!」

毒なしの矢よりはマシかとヒグマに駆け寄りながら腰の短刀を抜いた時、下敷きになっていた従業員さんの銃が暴発して大きな破裂音が森に響く。かなり近距離にいたので思わず体が硬直してしまったけど、ヒグマも驚いたようで慌てて森の奥に逃げていった。

そのまま従業員さんに近付けば、顔を引っ掻かれて銃も使い物にならなくなってしまっているものの、他に大きな傷は見当たらず意識もはっきりしている。

「お辛いでしょうが、手当は安全な場所でしましょう。骨は折れてませんか?」
「あ、ああ…!」
「なまえさん無事かっ!?」
「大丈夫です、アシㇼパさんは?」
「私は平気だ!全員移動するぞ!」

四人でキロランケさんと白石さんがいるはずの農家まで撤退するために動き出す。
その間も二匹のヒグマはずっと後をついてきていて、殿を務める杉元さんの威嚇射撃にも動じない。いつ現れるかわからない無傷の三匹目に警戒しながら、とにかく走り続ける。


「あった!あれだ!」

従業員さんの指差す先に現れた農家を見た瞬間、胸の内にほんの少しだけ希望が生まれる。先に辿り着いたアシㇼパさんと従業員さんが玄関を叩くと、裏の方から白石さんの声がした。

「気を付けろッ、家のまわりに赤毛がいるぞ!!」

その言葉とほぼ同時に家の横からもう一匹ヒグマが現れて、生まれたばかりの前向きな気持ちは一瞬で掻き消された。よりにもよってここで三匹出揃うなんて。もうこうなったらこれ以上増えないことを願うしかない。

「三人とも早く入れッ!赤毛を食い止める!」

杉元さんがヒグマを銃で牽制してくれている間に、アシㇼパさんと怪我人の従業員さんに先に家の中に入ってもらう。

「カフッ」
「うおッ!?」
「っ!」

従業員さんが中に入るのをを手伝いながら背後から聞こえた声に振り返れば、ヒグマの攻撃を辛うじて防ぐ杉元さんがいた。ヒグマの気を逸らしたくて咄嗟に矢を放てば、杉元さんを襲うヒグマの首に突き刺さった。

「ヴゥッ!」

当たったことはよかったけど、結局傷は浅くヒグマは多少狼狽えただけで逃げる事無く今度は私と杉元さん両方に敵意を向けてくる。その間に体勢を立て直し革帯を外す杉元さんの「早く中にッ!」という声に急いで窓に向かう。
持っていた弓を先に渡して、白石さんと従業員さんに窓の中に引き込んでもらいすぐに横に転がれば、間髪入れずに飛び込んできた杉元さんが先ほどまで私のいた場所に倒れ込んだ。
ひとまず全員が家の中に避難できたことにほっと一息つく。

その瞬間、窓から入り込んできた腕に従業員さんが掴まれた。

家の中に絶叫が響き渡る。一人杉元さんが窓から引き摺り出されかけた従業員さんの足を掴み、中へ引き戻そうとする。

「誰か手を貸せッ!」

その声で我に返り、先に動き出してもう片方の足を掴んだアシㇼパさんの上から覆いかぶさり一緒に掴む。でもヒグマとの力比べとなれば勝敗は分かり切っていて、少しずつ自分たちの体も窓に近付き、爪の食い込んだ従業員さんの腹はどんどん裂けて悲痛な叫び声が続く。

「杉元もうよせッ、お前も引きずり出されるッ!」

足から手を離し杉元さんの袖を掴んでアシㇼパさんが声を張る。外では途切れ途切れになり声量が落ちていく悲鳴に代わってヒグマたちの咀嚼音が聞こえ、辛うじて屋内にある避けた腹からは腑が溢れている。引き戻せたとしても、もう助からないことは明らかだった。

「コイツは暗号の入れ墨を持つ脱獄囚かもしれないんだッ!!」

杉元さんの目的は、既に従業員さんの体の回収に切り替わっていたらしい。冷静な判断に少しだけ寒気を覚えつつ、だったら諦めるわけにはいかないと流し台の縁に足をかけて踏ん張り直した時、「二人とも手を離すなよ!!」とキロランケさんの声が聞こえて、背後から出てきた銃剣がヒグマへ突き刺ささった。
ふっと外へ引く力がなくなったところで、二人で思い切り体を中へ引きずり込んだ。

顔を中心にヒグマに食い荒らされた従業員さんは、虫の息だった。悲惨な光景に余計なことと分かりつつ、思わずアシㇼパさんの視界を遮るように前に立ち、鉢巻きを下げて視界を狭める。

「違った……囚人じゃねえ」

杉元さんが上着を脱がせて入れ墨が入っていないことを確認する間に、従業員さんは静かに呼吸を止めた。
杉元さんとキロランケさんが遺体を部屋の隅に移動する間に、意識的に気持ちを切り替える。今は次に誰がこうなってもおかしくない。

どうやら先ほどのヒグマからの一撃で、杉元さんは弾を入れ物ごと外に落としてしまったらしい。

「アシㇼパちゃん弓矢は?」
「……弓は折れた。毒矢は赤毛に襲われて全部森で落とした」
「何やってんだよドジッ!」

取り乱す白石さんに思い切り靴を投げつけるアシㇼパさん。よっぽど気に障る発言だったようだ。

「なまえ、お前の毒矢はどうした?」
「…森で矢筒ごと壊されました」
「バカァッ!!」
「すみません」

キロランケさんに答えればアシㇼパさんと同じように白石さんに怒られたけど、もうただの八つ当たりの悪口なので空返事する。
そんなことより、今になってどうしようもないくらいに壊されたあの矢筒が頭に浮かぶ。アシㇼパさんやマカナックルさんに教わりながら作った矢筒は、イカヨㇷ゚と呼ぶには模様もなくて不格好なものだったけど、だからこそ愛着を持って使っていた。……だめだ、落ち込むから考えるのやめよう。

「そういえば、あのヒグマなまえさんの矢が刺さったのにピンピンしてんな。アイヌの矢には毒があるんだろ?なまえさんの矢も同じじゃないのか?」
「私、矢は毒付きと毒なし両方用意してるんです。森で逃げる時にまだ使えそうな矢を掴んできたんですけど、毒の付いていない矢でした」
「なんっっでそんな面倒なことしてんだよ!」
「すみません」

杉元さんへ返答すればまた声を荒げる白石さんに少しイラッとして、「人相手に使うかもしれないからですよ」と言おうとしてやめた。外にヒグマが三匹うろついているこの状況では八つ当たりしたくなる気持ちもまあわからなくもない。意味はないけど。


それより屋内が安全なうちに対策を立てないといけない。そんな考えは、キロランケさんの「危険なのは外だけじゃない」と言う台詞と傍の階段に置かれた二つの生首で霧散した。

人の首なんて数年前まで見慣れていたはずなのに、額に“六”と刻まれた物言わぬ生首に、一瞬呼吸を忘れる。山で動物に食い荒らされた人の死体なんかは時折見かけても、意図的に拵えられたそれを見るのは久しぶりで、いくらか耐性が落ちていたらしい。

生首は苫小牧の競馬場で、キロランケさんに八百長を持ちかけてきた人たちのものらしい。6番の馬の持ち主だったならず者──ヤクザが、キロランケさんへの報復のために追ってきたのだという。そしてそれは、いつの間にか屋内にいた見知らぬ男性二人のどちらかの可能性が非常に高いとのことだった。

……ところでさっきから気になってたけど、土間に馬がいるのは何故なんだろうか。


仲沢さんと若山さんと名乗った男性二人は、白石さんとキロランケさんの尋問に自分は無関係だと主張するけど、決定的な根拠は何もない。ピリピリとした空気を「もういい面倒くせえ、脱げ」と切り開いたのは杉元さんだった。

「キロランケを追ってきたヤクザなら“くりからもんもん”が入ってるだろ。そいつに外の弾薬盒を取りに行かせようぜ」

“くりからもんもん”。後で意味を聞こうと耳慣れない言葉を記憶した刹那、若山さんが杉元さんへ一閃を放った。紙一重で避けた杉元さんの反撃で、若山さんの衣服が切り裂かれる。

「テメエらが連れてきたヒグマだろうが!!テメエでケツが拭けねえなら斬り刻んでヒグマの餌にしてやろうか」

隠し持っていた鍔のない刀を構える若山さんの肩には、赤と青で彩られた見事な入れ墨が刻まれていた。

「わぁ、すごーい」
「なまえちゃん空気読んでッ!」

緻密に彫り込まれた絵柄につい感嘆の声を漏らしたら、引き戸の陰に隠れた白石さんに咎められてしまった。
いやでもだってすごい。あんなに繊細な入れ墨見たことない。もっとよく見せてもらえたりしないだろうか。

結局若山さんが件の“ヤクザの親分”の正体だったようで、キロランケさんと杉元さんの三人が睨み合いを続ける中、鈴の転がるような声が響いた。

「みんないいかげんにしろ、外にはヒグマが3頭もいるのに中で殺し合ってどうする!ここを無事に脱出することが最優先だろう!」

ごもっともなアシㇼパさんの言葉に、意外にも最初に賛同した若山さんが刀を納め、キロランケさんに“ちょうはん”で外の弾薬を拾いに行く人間を決めようと持ちかけてきた。

「…杉元さん。“ちょうはん”ってなんですか」
「ん?ああ、そうか。なまえさんずっとアイヌの村で世話になってたんだもんな」

これから始まるキロランケさんの勝負事を呆けて眺める気にはなれず、白石さんとキロランケさんがサイコロに不正がないか確認する間に杉元さんに丁半について教えてもらった。杉元さんの言い方だとかなり常識に近い知識のようなので、この機会に一通り憶えておくことにする。

サイコロの確認が終わると、若山さんは仲沢さんにサイコロを振るよう指示した。動揺する仲沢さんについでとばかりに「あんたも脱げ」と言い放つ杉元さん。仕方なく上半身裸になった仲沢さんの肩に入れ墨はなく、なぜか仲沢さんの乳首に対しての文句が次々に上がった。確かにその、きれいとは言わないけど、脱がせておいてあんまりな言い草だ。
とはいえ確かにアシㇼパさんに見てほしい乳首ではないので、威嚇するように唸り声を上げるアシㇼパさんの両目をそっと手で隠す。自分で言っておいてあれだけど、見てほしい乳首ってあるんだろうか。


ひと悶着あったものの、たどたどしい仲沢さんの壺振りが始まった。なんでか白石さんまで座り込む中、壺が振られて一気に緊張が走る。

「丁ッ!!」
「うるせえシライシ!!半だ!!半!!」

完全に博打への執着が出てしまっている白石さんを叱りつけて、キロランケさんは“半”を選ぶ。
そして持ち上げた壺の中、サイコロの目の合計が偶数だとわかりほっと緊張が解けた瞬間、「このバカ野郎ッ!!」という罵声とともに若山さんが仲沢さんの顔を蹴りつけた。
酷い八つ当たりに呆れていたら、白石さんが壺の中に髪の毛が張ってあることに気付いて声を上げた。毛返しという高度なイカサマの技術だそうで、つまりは若山さんと仲沢さんが手を組んでいたことになる。

イカサマが失敗した二人を笑う声が屋内に響く中、若山さんは倒れ込んだ仲沢さんから視線を外さない。お前がイカサマに失敗する筈がない。ワザとやったんだろう、なんで俺を困らせるようなことばかりするんだと仲沢さんに声を荒げて詰め寄る。

「親分が浮気するからだ!」

そんな若山さんをキッと睨み付けながら、仲沢さんが叫んだ。

あっ、と漏らしそうになった口を手で塞ぐ。

「あれは金で買った男だと言っただろう!まだ根に持ってるのかッ!」

若山さんが負けじと言い返し、再び剣呑な空気が部屋に漂う。

もう誰も笑っていなかった。

その後も若山さんが白石さんのお尻を狙っていただとか、男娼と寝るのは便所に行くようなもんだとか人目をはばかることなく痴話喧嘩が続き、深い考えなくアシㇼパさんの耳を両手でそっと塞いだ。なんて澄んだ目で二人を見ているんだろう。


その時、廊下の雨戸がメキメキと悲鳴を上げ始めた。外側からヒグマがこじ開けようとしているのだとすぐ気付く。

「お前らの痴話喧嘩はどうでもいいから早く弾薬取ってこい!!約束守れよ親分さん男だろ!?」

杉元さんの言葉に若山さんは恨めし気に唸りながらも、生首二つを掴むと台所と反対の窓から放り投げてヒグマたちをおびき出し、自分は私たちが入ってきた窓から抜け出した。
相変わらず仲沢さんと口論を繰り広げつつも杉元さんが落とした弾丸を拾い上げたものの、その間にヒグマの一頭が家と若山さんの間に立ち塞がる。
冷静な判断で革帯を外し、ヒグマに投げつける若山さん。必然的にずり落ちた洋袴から出てきた生足には、見慣れた模様が描かれていた。


「しゅ、」



囚人だあぁ!!



五人分の叫び声が森の中に響き渡った。


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