ダンさんの牧場に戻った後、アシㇼパさんは約束通り三十円でアザラシ皮の服を買い戻すことができた。丁寧に作られた服は本当に立派な品で、「あの婆ちゃんきっと喜ぶぜ」というキロランケさんの言葉に同意する。

「この弓誰が作ったんだろう。とても良い物だな」
「本当だ、随分使い込まれてますね」

壁に掛かった弓を熱心に見上げ、手に取るアシㇼパさん。折れてしまった弓も手入れの行き届いた立派な物だったけど、壁に飾られた弓は確かに鑑賞用とは思えない一級品に見えた。
二人でまじまじと見とれているとそれに気付いたダンさんが弓の謂れを教えてくれて、それからふっとこちらを見る眦を和らげた。

「赤毛と戦って弓と矢筒がダメになってしまったんだろう?君たちにはその弓と矢筒と、少ないが矢を譲ろう」

「ほら、矢筒と矢はそこにあるものだ」とダンさんが指さしたのは、アシㇼパさんの持っている弓の飾られていた場所のさらに上。矢筒と数本の矢が飾られていた。
ダンさんに断りを入れて矢筒を手に取れば、木製で桜の木の皮を巻き付けた本体は軽くて丈夫で、取り付けられたイクパスイには私では絶対に思い付かないような繊細で美しい模様が彫られている。矢も実用的な作りで、牧場に戻る前に森で回収した毒を使い回しても問題なさそうだった。

「これは……こんなに手の込んだ品、本当にいただいても?」
「構わない。君たちはそれを贈るに値することをしてくれたと思っているよ」

手入れのしようもないくらい壊れてしまった矢筒と矢は森で処分してしまったので、この申し出は大変ありがたい。根っからの商売人だけど気前はいいんだなとダンさんの印象を書き換えて、お礼を言って素直に頂戴することにした。

アシㇼパさんといそいそと手に入れた装備を確認していると、ダンさんが杉元さんに若山さんの刺青を持っていく理由を尋ね、杉元さんは知らない方がいいと忠告した。するとダンさんは「面白いものを見せよう」と言って、徐に箱の中から取り出したものを机の上に置いた。必然的に視界に入ったそれに、思わず息を呑む。

机の上に置かれたのは、一冊の本。
ただし表紙に文字は記されておらず、代わりにそこには“顔”があった。
閉じた瞼、骨の無い潰れた鼻、額や眉の位置にうっすらと生えた毛。ご丁寧に睫毛まで残っている。それらすべてが、この本が人の皮から作られているのだと物語っていた。

ダンさんの話によれば、この本はヒグマに殺された従業員さんから買い取ったもので、なんでも炭鉱の町夕張にいるある男のもとから盗み出されたものらしい。そしてその盗人が入り込んだ男の家には、ヤクザのくりからもんもんではない、“奇妙な入れ墨の皮”もあったそうだ。

私たちの次の目的地が決まった瞬間だった。


***


日もすっかり暮れた頃、コタンに戻ったアシㇼパさんからアザラシ皮の服を受け取られた大伯母様は、涙を流して喜んでくださった。

それから私たちのために食事やお酒を用意してくれて、これだけの気持ちを返されるくらいのことをしたんだと思うとこちらまで心が温かくなった。

「あれ〜?なまえちゃんあんまりお酒飲んでなくなぁい?」
「え〜?飲んでますよー」
「いやいや、札幌の時はそんなもんじゃなかったでしょ」
「うっ、あれはほんとに調子に乗りすぎました……」

振る舞われたお酒──トノトを飲んでご機嫌の白石さんが絡んできた。ちびちび楽しんでいた私はまだほろ酔い程度で済んでいて、杉元さんの言葉につい最近のお酒の失敗を思い出してしまい苦笑する。

「おお、似合ってるぞアシㇼパ」

聞こえてきた楽し気なキロランケさんの声に顔を上げると、なんとアシㇼパさんが今日取り返したアザラシ皮の服に袖を通していた。
両手を広げ若干膨れっ面で立っているアシㇼパさんの横には、ニコニコ笑顔の大伯母様。まだ少し丈が合わなくて手と足が隠れてしまっているけど、そんなの関係ない。

「わあっ、素敵ですよアシㇼパさん!」
「ほんと、アシㇼパさんすごく似合ってるよ」
「うんうんかわいいねぇアシㇼパちゃん!」
「……もう脱ぐ」
「「「えぇ〜?」」」

酔っ払い達の不満の声を無視して脱ぎ始めてしまったアシㇼパさん。顔が赤いのはトノトのせいかはたまた別の理由か。トノトに口をつけるアシㇼパさんの姿は思い出せないまま、今はそれよりも目の前の光景を目に焼き付けておきたくてその姿を眺める。

あの服は花嫁衣裳だとアシㇼパさんは言っていた。アシㇼパさんが本当の意味であの服へ袖を通す日が来るかはわからないけど、そのいつかの姿を想像してしまう。
どんな服を着るにせよ、愛する人の隣に立つアシㇼパさんは、きっと眩しいくらいに美しいんだろう。



それからアシㇼパさんが一番乗りで布団に潜り込み大人たちもそろそろお開きという頃合で、ふと厠に行こうと思い立って外に出た。

あと二、三日もしたら満月だろう。皓皓と降り注ぐ光で、周囲が昼間のようによく見えた。

ふわふわとした気持ちと足取りで厠に向かいながら、今日一番心に残った場面を思い出す。

若山さんと仲沢さんの、幸せそうに笑い合う顔が頭から離れなかった。

自分を理解してくれない相手に怒って喧嘩して、そして相手のために命を落とした二人は、心底互いを想い合っていたんだろう。
最期の瞬間を見届けた時、心の底から素敵だと思った。羨ましいと思った。
だって、誰も一人ぼっちにならなかったから。


そんな記憶を繰り返し辿っていた私を不意に現実に戻したのは、突然背後から腕を引いた力だった。

驚き振り返れば目に入った、私の二の腕をがしりとつかむ大きな手。そういえば今日は腕を引かれるのは二度目だなあと、頭のどこかにチラリと浮かんですぐ消えた。

「……杉元さん?」

ぼんやりし過ぎて、背後に人がいることに気付けなかった。
驚いて名前を呼んだ相手も、月明りの下で私と同じように目を見開いていた。


「なまえさん、何してるんだ?そっちは女性用の便所だろ」
「……え?」

その言葉に改めて振り返ってみれば、私の体は今まさにメノコルに入ろうと屈んだところで杉元さんに止められていた。

……やってしまった。


「…あー……間違えちゃいまし、た…?」
「…5年もアイヌに世話になってか?」

訝しむ声と視線が突き刺さり、ただでさえしっかりと腕を握る手にさらに力が込められた。痛い痛い痛い。
これは、完全に、怪しまれている。

とりあえず最大限頭を働かせてみるけど、ここから巻き返せる策が何も思いつかない。
ここで間違いだと言い張り続けて、例えこの場は引いてもらえたとしても、その後の私を見る杉元さんの目は確実に変わるだろう。最悪アシㇼパさんへ近づかせてもらえなくなる可能性さえある。だって私ならそうする。

誤魔化し通すか、己の尊厳とアシㇼパさんを取るか──。
あまり迷う必要はなかった。

「……合ってます」
「…ん?」
「私は、こっちの厠で、合ってるんです……」

久しぶりにいつもより少しだけ高い本来の声音で、杉元さんの顔を見ずに言葉を発した。


「……」
「……」
「…………え?」

沈黙の痛さに耐えきれず口を開こうとしたタイミングで出た杉元さんの返答は、まあ想定の範囲内のものだった。

「いや、え、その、えっと」
「あのですね…」
「待って時間ちょうだい」
「はい」

手で言葉を制されて、大人しく従う。
そのまま額に手を当ててたっぷり時間をかけて唸った後、顔を上げて私を見た杉元さんの浮かべた笑みは、ものすごく弱々しかった。

「……いや、うん。そこまで驚くことじゃないかな……」
「ですよねぇ……」

案の定の返答に苦笑いを返せば、気まずそうに視線をそらされてしまった。それから、そのまま自身の胸の前でいじいじと両手の人差し指を突き合わせる杉元さん。

「や、初めて会った時から男にしては線が細いなあとは思ってたんだよ……?いつもキロランケの体で隠れるからあんまり見ないけど、家の中での挨拶の時に鉢巻き外してるとほんと綺麗な顔してるし。
ただ、あの、背丈はそれなりにあるしまだ成長しきれてない時期だろうし、そういう見た目の話って本人が一番気にしてたりするから、あんまりこっちも意識しないようにしたほうがいいかなって……」
「優しい…」

思い返せば、杉元さんは最初から私への態度が他の男性たちに対してよりも柔らかかった。年が離れていると思っていたこともあるかもしれないけど、きっと話の通り、無意識とはいえアシㇼパさんに近い接し方をしてもらっていたんだろう。

「でもご想像より歳は大分上ですよ」と訂正すれば「はい…」と大きな体を小さく丸めて弱々しい声が返ってきた。別に怒ってないってば。

「あー……ちなみにさ、このこと知ってるのって…」
「今一緒にいる方々なら、アシㇼパさんとキロランケさんですね。それから小樽のコタンでは暫く女性の恰好でいたので皆さんご存知ですし、アイヌの方々には大体見た目ですぐ違和感を持たれちゃいます」
「白石は…」
「……多分、ご存じでないかと」

敢えて知らないふりをしている可能性もないことはないけど、普段の態度からしてまあないだろう。

「…気付かなくてごめん」

どうも必要のない罪悪感に駆られているらしい杉元さんに対して、首を横に振る。

「気付かれないようにしてたんですよ。そもそも、謝らないといけないのは私の方です。本来なら旅に出る前にお伝えするべきだったのに、旅への同行が難しくなりそうで……。申し訳ありませんでした」

そう伝えると杉元さんは少し考えてから、今度は真っすぐ私を見た。

「確かに少し気にはなったかもしれないけど……あの時アシㇼパさんはなまえさんを“信用してる”って言ったからさ。なまえさんが女の…人だって分かってたとしても、一緒に行く結果は変わらなかったと思うよ」

杉元さんのその言葉で、自分の顔が情けないくらい緩んでしまったのが分かった。いつだって私が彼女に助けられていることを、改めて実感する。
同時に、彼がアシㇼパさんを強く信頼していることも。


「……まあ、そういうわけでして。私としては、今までと同じようにお付き合い頂きたいです。でも無理にでも押し通したいわけではないので、杉元さんの楽なようになさってください」

切り替えるようにそう伝えれば、もう一度少し考える素振りをしてから杉元さんは頷いた。

「…わかった。でも、あんまり無理はしないで。困ったことがあったらすぐに俺がアシㇼパさんに言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」

どこまでも優しい言葉に、心からのお礼を伝えた。


「でもそっかぁ、なまえさんが……だからアシㇼパさんとあんなに……うん…」
「…アシㇼパさんとの関係、ご期待に沿えずすみませんねえ」
「ヘェッ!?な、なななナニがっ!?」

ちょっとからかっただけなのにあからさまに動揺する杉元さんについつい吹き出しながら、彼の本来の目的地を指さした。

「ふふっ……とりあえずお先どうぞ」
「あっはい…」


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