殺しきれない嗚咽を必死に抑える。
どこかとても遠くから、たくさんの悲鳴が聞こえてくる夜。藪の隙間から覗いたぼんやりと暖かな光が差す草むらで、地面に倒れた女に男が覆いかぶさり着物を剥ぎ取っている。
首に掛かる男の手を掴み懸命にもがいていた女は徐々に動かなくなり、やがて力の抜けた腕がゆるやかに落ちていく。
白く細い首に男の両手が絡まり一際二人の体が近付いた時、地面に落ちた手がこちらに縋るように伸ばされた。
いやだ。母さんに酷いことしないで。
両手を固く握りしめたまま、言いつけを破り薮から飛び出す。
そして男にぶつかった瞬間、全てが真っ黒になった。
はっと現実に引き戻される感覚。
最近では珍しくなった顔を隠したくなるような冷たい空気が今の出来事を夢だと教えてくれて、いつの間にか吸い込んだまま忘れていた息をゆっくり吐き出す。
最近はほとんど見なくなってたのになあ。
……それにしても、なんだかやけに体が重い。腰から下が動かない。
横向きの体勢のまま足元を見ると、いつの間にか白石さんが私の足にしがみついて太腿を枕にして寝ていた。
バレた、と咄嗟に体を硬くしたけど、そういえば彼が昨晩遅くにベロンベロンに酔っぱらって町から戻ってきていたのを思い出す。あの状態ではきっと、何を枕にしたのかさえまともに理解してないだろう。
同時にいつもなら絶対に気付くはずの状況で眠り続けていた自分にもいろいろ思うところはあったけど、無意識に明け方の寒さを凌ごうとしたのか、勝手に人の毛皮に潜り込んで来た上に気持ちよさそうに眠り続ける白石さんの緩み切った寝顔を見ていたら、全部どうでもよくなってもう一度大きく息を吐いた。
東の窓から見える空はうっすらと明るくて、もうすぐ端が燃えるような色に変わるだろう。いつも夜明け前に起きる身としては寝直すには微妙な時間で、とりあえず邪魔な顔と腕を引き剥がして体を起こすことにした。
「うわ、涎付いてる…」
夢ついては考えないように、無理矢理頭から追い出した。
すっかり日が昇りきったその日の午後、アシㇼパさんと杉元さんと私の三人でコタンの外に山菜を採りに出かけた。
今日の夕食分と併せて、お世話になっているアシㇼパさんの大伯母様にお渡しする分の山菜を探す。
先日の杉元さんは葉の形だけでニリンソウを探してしまっていたけど、ニリンソウとトリカブトの葉はよく似ていて見分けがつきにくい。でもニリンソウが春に芽生えてすぐ白い花を咲かせるのに対して、トリカブトの花が咲くのは夏頃なので、花さえ見れば違いがすぐに分かる。とはいえ念のため最後はアシㇼパさんに確認してもらえるように、せっせと花と一緒に葉を摘んでいく。
この数日快晴が続いたおかげで先日下処理しておいたアシㇼパさんと私の分の山菜も今朝にはしっかりと乾燥していたので、明日からの旅に問題なく持っていけそうだった。
チセに戻ったらもう一度荷造りの確認をしよう、とコタンに戻ってからの予定を頭の中で確認する。
「なまえ、こっちに来い!」
「はーい!」
アシㇼパさんに呼ばれて顔を上げ、すぐさま駆け寄る。
「コㇿコニを見つけた。なまえも食べろ」
「わっ、もう黒くなってる。先に顔拭きましょうか」
手拭いをすぐ近くにあった小川で濡らし、アシㇼパさんの口周りを優しく拭く。
「むぐ、そのうち取れるからぶぇつにいい」
「そう言わずに…って、もう落ちない……。コタンに戻ってからよく洗いましょうね」
諦めて立ち上がると、じっとその様子を見ていた杉元さんと目が合った。その口の周りを見たらふふ、と口角が上がってしまって、もう一度手拭いを持った手を伸ばす。
「はい、杉元さんこっち向いてください」
「えっ」
「フキの灰汁は時間が経つとなかなか取れないんです。今のうちに落とせるだけ落としましょう」
「お、俺は良いよ。手拭い汚しちゃ悪いし」
「そんなこと気にしないでください。……やっぱり、まだ傷が痛みますか?」
ダンさんの牧場での一件からしばらく経って、杉元さんの傷はまだまだ痛々しさが残るものの、かなりの早さで治癒が進んでいた。とはいえ、やっぱりまだ刺激があると痛むんだろう。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「?……ああ」
顔に触れるのはこれが初めてでもないし、潔癖なわけでもなかったはずだ。なのにやけに腰の引けている杉元さんに一瞬疑問を持ったものの、すぐに原因を察して苦笑いに近い笑みを浮かべてしまう。
アシㇼパさんが杉元さんに付きっきりで顔の傷を治療している間、私は次の旅の出発に向けてコタンの手伝いや装備の補充、風呂に洗濯と町での一人行動が多くて勝手に終わった話だと思い込んでいたけど、牧場から戻ってきた日の晩のことは杉元さんの中で若干後を引いていたらしい。
これでは白石さんにもあまり長くは隠せなさそうだ。
「…ははぁん?
杉元ォ。さてはお前、ようやくなまえが女だって気付いたな?」
「うぅっ…!」
ほら見たことか。
私たちのやり取りを黙ってみていたアシㇼパさんが、ニヤニヤと杉元さんを見上げる。
元来嘘が下手なのか相手がアシリパさんだからなのか、実質肯定するように目を背けて動揺する杉元さん。
「おいおい杉元、何をそんなに気にしてるんだ?お前が勝手に勘違いしてただけで、今までもこれからもなまえは女だぞ?」
「そ、そうだけどさぁ…!っていうかアシㇼパさんも早く教えてくれればよかったのに!」
「女だろうが男だろうがなまえはなまえだ。一々言う必要はないだろう」
「うっ」
「はわ、アシㇼパさんかっこいいぃ……!」
口の周りを真黒にして頼もしく微笑むアシリパさんはキラキラ輝いていて、ときめかずにはいられなかった。
それからコタンに戻り、キロランケさんと白石さんの獲ってきたサクラマスと私たちの集めた山菜を使ったイチャニウ(サクラマス)のオハウを堪能した。オハウはどれも好きだけど、旬の食材をふんだんに使った汁物の美味しさは格別だ。
春の訪れを報せる温かい食事に、その日の夕食はいつも以上に笑い声が溢れているように思えた。
昼間の山菜採りと夕食の席ではしゃぎ疲れたのか、いつもより少しだけ早く寝入ったアシㇼパさんに布団を掛ける。開いた口から涎を垂らした寝顔は今朝の白石さんと似て非なるもので、見ているだけで愛おしさがこみ上げる。
背後ではキロランケさんの家族の話や、杉元さんの顔にアシㇼパさんが施した治療の話が聞こえてくる。
「俺は傷跡なんでどうだっていいんだけど」と言う杉元さんの言葉に、「傷が増える前の顔が気に入っていたのかな?」とどこか楽し気なキロランケさんの声が続く。
「たしかにもともとモテそうな顔ではあるよな。さすがに結婚はしてないんだろ?地元に“いい人”くらいいるんじゃねぇのか?」
ちょうど顔を上げた途端始まった、良くも悪くも遠慮のない白石さんの台詞にいかがなものかと思いつつ、つい条件反射で声をかけられた杉元さんの顔を見て少しだけ目を見開く。無言で囲炉裏の火を見つめる杉元さんの目は、ここにはいない誰かを見ているように思えた。それが誰なのか、杉元さんとどういう関係なのは分からないけど、杉元さんにとってその誰かはとても大切な存在なんだろうな、と憶測に憶測を重ねて思った。
答えを返さない杉元さんをさらに茶化そうとする白石さんをキロランケさんがたしなめている間に、アシㇼパさんの頭から取れかけていた頭巾を外して枕元に置く。
キロランケさんにも、私の勘違いでなければ多分杉元さんにも大切な人がいて、二人ともその人たちのそばを離れてこの危険な旅を続けている。
キロランケさんがアイヌの未来を思っているのは知っているし、お金のためだけでなく、アシㇼパさんのことを思って旅をしてくれている杉元さんには本当に感謝している。
二人のことは心から尊敬していて、もちろん私の知らないそれぞれの事情もあるのだから、私にそれをとやかく言う資格なんてないのは理解している。
それでも、大切な人たちのそばを離れて最初の一歩を踏み出すことにした彼らの当初の気持ちは、当分理解できそうになかった。
「……ん?」
ふと視線を感じて顔を上げたら、ろくなことを考えていないのがもう分かる白石さんの品のない笑みが私に向けられていた。
「…なにか?」
「いやぁ、杉元の次はなまえちゃんの話と思ったけどさあ……これだけ分かりきってりゃ聞く必要もないねえ?」
ニマニマと笑う白石さんは、私とアシㇼパさんを交互に見ている。ああこの人もかともう一度杉元さんを見ると、背中を丸めて顔だけ明後日の方向を向いてしまっていた。こういう話は女性が好きなものだと思っていたけど、性別はあまり関係なかったらしい。
「……んもぉ、そんなんじゃないですってばぁー」
「やーん、若いっていいねぇキロちゃ〜ん!」
「シライシ、あんまりからかって後で仕返しされても知らんぞ」
「あれだけ見せつけたらからかいたくもなるって。なあ杉元?」
「……別に」
「なんだよつまんねーなー」
「私そろそろ寝ますね」
「えーっ?俺にも話振ってヨォー」
***
翌日お世話になったコタンを出立する時、アシㇼパさんは何だか機嫌が悪かった。
目を覚ました直後目の前にいたらしい白石さんに罵声とストゥルクを浴びせていて、白石さんは額に見事なたんこぶができていた。
長い間お世話になった大伯母様にお礼を述べて、キロランケさんと並んで歩きだす。視線を感じて顔を上げたら、ニヤニヤと意地の悪い笑みがこちらを見下ろしていた。
「……で、そろそろ俺は杉元をからかっていいのか?」
あ、やっぱり気付いてた。
「だめですよー、ただでさえ動揺されてるんですから…」
「まあ、あいつもガキじゃないんだ。そのうち切り替えるだろう」
そう言って先を歩く杉元さんを見て目を細めるキロランケさんからは、大人の余裕が溢れていた。
やっぱりかっこいいなあ。下睫毛長いなあ。私が今のキロランケさんと同じ年頃まで生きたとしても、これだけの貫禄を本当に身に付けられるだろうか。
「ま、俺としちゃこんな別嬪を男と間違えるうちはまだまだ青二才だがな」
「…おだててもこれ以上ご飯は食べられませんからね」
一瞬ほんの少しだけドキリとしたけど、明らかにそういった言葉を使い慣れている様子の色男。
そういえば、と最近隙あらば食わなきゃでかくなれんぞとアシㇼパさん以上にご飯を食べさせようとしてくる姿を思い出して宣言すれば、「そりゃ残念だ」とまったく残念でなさそうに笑ってぽんぽんと頭に手を置かれた。苫小牧辺りからこうして子供扱いされることが多くなったけど、堂々としていれば何も問題ないと気付いてからはなんだかこそばゆい気持ちになってついつい笑みがこぼれてしまう。
そんな私を見て目を細めていたキロランケさんが、ふと前方を見て笑った。なんだなんだと視線を辿っても、前には先に進んでいく三人の背中しかない。
「ま、なんとかなるもんさ」
「?はい」
結局よくわからないままキロランケの言葉に返事して、まあいいかとサラニㇷ゚を肩に掛け直した。
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