「見ろなまえ杉元、コタンがあるぞ。樺戸までもうすぐだけど休ませてもらおう」
「賛成」
「なまえさんもしかして疲れてる?荷物持とうか?」
アシㇼパさんの言葉に食い込み気味に同意した私を心配そうに見ながら、アシㇼパさんのサラニㇷ゚を担いだまま手を伸ばしてくれた杉元さんへ問題ないと伝える。
夜半や明け方の冷え込みは残るものの日中の暖かさが日に日に増していく今日この頃、足場の悪い山の中を歩いていると前より汗をかくことが多くなって、体に付く汚れも増えた。川沿いに移動することが多かったので水には困らなかったけど、夕張で最後にお湯で体と髪を洗ってから暫く経つし、自分の体臭にはよくよく気を遣うよう教わってきた身としてはそろそろゆっくりお湯に浸かって全身を洗いたい。
もしかしたら近くにある温泉を教えてもらえるかも、とささやかな期待に胸を膨らませれば、斜面を降りる足取りも自然と軽くなった。
コタンに近付くと、男性から声を掛けられた。まあまあに怪しい集団からの休憩と食糧調達の願いを快く受け入れてくれた彼と世間話を続けていると、「オイ、なんだあれ」と牛山さんがコタンの中を指さす。指先を辿りヘペレセッが見えたと思った瞬間、しかりと視界に捉えたそれに息が止まった。
それなりの大きさに作られた子熊のための檻。
そこには焦茶色の毛玉がはち切れんばかりに詰まっていて、ミシミシと内側から丸太を軋ませていた。
隙間からこぼれ落ちる排泄物は片付けられることなく檻の下に溜まっていて、風向きが変わればすぐにここまで匂いが届くだろう。
旅立つ前、私に体を預けて木のおもちゃで遊びながらブブブブと甘えるように鳴いていたあの子を思い出して、腹の奥底から不快感が込み上がる。苫小牧や日高では感じることがなかったけど、これが地域差というやつなんだろうか。
住人の前でおおっぴらに聞くこともできずにちらりとアシㇼパさんを横目に見れば、ただじっと檻を見つめている。その表情は平静を保っているようにも、目の前の光景に対してじっと考え込んでいるようにも見えた。
色々と思うところはあるものの、ひとまず滞在の許可をもらうために全員で男性──エクロクさんの後に続き、チセの掃除が終わるのを待つ。
が、なんだか落ち着かない。子熊の檻の件だけじゃなくて、このコタンに入っていから今まで、ずっと体に纏わりつくように感じている違和感が消えない。
根拠もないのにアシㇼパさんに「このコタンなんか変じゃないですか?」と言うのも憚られてどうしたものかと周囲を見回すと、遠くからこちらを観察している男性たちを見つけた。アイヌの人たちは好奇心の強い方が多いから、いつものことだと思い友好的な態度のつもりで彼らに笑顔を向けて、気付いた。
私、このコタンに入ってから大人の男性しか見てない。
その時、背後に気配を感じてバッと振り向く。そこにはさっきまでふらふらと蝶々を追いかけていた尾形さんが、今度は私の背中に手を伸ばしかけた体勢で止まっていた。
その理由にすぐ勘付いて、またか……とちょっとあからさまなくらいに眉をひそめたら、それ以上に眉間に深い皺を刻んだしかめ面を向けられた。
「なんだ」
「なん…いや、今髪引っ張ろうとしてましたよね」
「だったらなんだ」
「……え、ん?」
あまりにも堂々と言い放たれて、確かにまだ何もされてないやと納得しかけた思考を慌てて振り払う。
先日のヤマシギの一件以降、何故か尾形さんは私に用事ができると「おい」という呼びかけと同時に髷を引っ張ってくるようになってしまっていた。完全に手綱扱いである。
とはいえ多少の力加減はしてくれているようで、以前のように首にまで負担がかかるほどではない。鬱陶しく思いつつも面倒事を避けたい一心で黙ってされるがままでいたところ、数日で杉元さんに気付かれた。
物凄い剣幕で詰め寄る杉元さんにてっきり大人しく引き下がると思っていた尾形さんが売り言葉に買い言葉で火に油を注ぐ中、結局最後は牛山さんに無理矢理二人を引き剥がしてもらって、それからここまで私の移動中の定位置はアシㇼパさんと杉元さんの間だった。
ちらりと横目で杉元さんを確認すれば、蟻に夢中でこちらには気付いていない。
元はといえば黙ってされるがままになっていた私にも問題があるし、これ以上余計な騒ぎを起こさないためにも今伝えておくべきだろう。
「…とにかく。引っ張られると頭痛くなるし、髪も痛むのでやめてください」
そう言って髪が揺れ動かないように前に流して自分も前方に向き直り、心の中でほっと息を吐いた。
よし、ちゃんと言えたぞ。
大した痛みはなかったとはいえ、背後から突然に髪を引かれるのはなんだかんだまあまあのストレスだった。積もる苛立ちを紛らわせようと、ある日夜中に熊笹の影から出てきた尾形さんがなんとなく猫に見えてから、猫ちゃんがじゃれてきているのだと思い込むくらいには。
自分でもその発想はどうかと思うし別に尾形さんは可愛くないけど、結果として効果はあったので人の思い込みの力は偉大だ。
そう、今までのアレは猫ちゃんのイタズラ。かわいい猫ちゃんのかわいいイタズラだと思えば多少のことはやり過ごせ
「調子に乗るなよクソガキ」
「い゛っ」
アシㇼパさぁあん!!
***
それから少しするとチセの中から新顔の男性が出てきて、全員で手を繋ぎ家の中に案内されることになった。
男性として席に座るために、前方の尾形さんと最後尾のアシㇼパさんと手を繋いで入り口を潜る。
部屋に入る前に鉢巻を外し忘れていたことに気付いてアシㇼパさんと繋いだ手を離そうとしたものの、握力を緩めても一向に離れる様子のない小さな手に違和感を覚えて後ろを振り返ると、意思を持ってこちらを見上げる瞳と視線が交わった。アシㇼパさんに鉢巻を取る気配はない。
その明確な意図に気付けたわけではないけれど、その小さな手をもう一度握り直した。
部屋に入ったところでアシㇼパさんの手が離れて、尾形さんに続いて上座の端に座る。
帽子を取りながらこちらを気にする杉元さんに曖昧に微笑み返してから炉を囲む人々を見渡すと、入り口近くに座る女性へ自然と視線が動いた。アシㇼパさんを見て少し目を見開いていた彼女は、私と目が合うとすぐに視線をそらしてしまった。他の人たちに私たちを気にする素振りはない。
全員が腰を下ろしたところで、エクロクさんのお父上のレタンノさんがオンカミを始めた。それほど見る機会が多かったわけではないけど、この人のオンカミは随分と素早い所作だなあと思いながらその光景を見守る。
「ムㇱオンカミ」
作法通りレタンノさんに続こうとした私たちを遮り、アシㇼパさんがレタンノさんを指さして耳慣れない言葉を言い放った。全員が唖然とする中、女性の小さく噴き出す声が聞こえる。
エクロクさんのアシㇼパさんについて尋ねる声に杉元さんが当たり障りのない嘘を返せばそれ以上の追及はなく、そのままエクロクさんが家族の紹介をし始めたところで再びアシㇼパさんが「オソマ行ってくる!」と大声で話を遮り立ち上がった。
焦った杉元さんが窘めるけど、聞く耳を持たずにずんずん歩き出すアシㇼパさん。
「あっ、じゃあ私も」
「平気だ!一人で行く!」
なんとなく一人にさせたくなくて同伴しようとしたら、ピシャリと突っぱねてきた妙に引っかかる言い回しに、夕張で私を信用していると言ってくれた言葉を思い出してそのまま小さな背中を見送った。
やっぱり何かおかしい。アシㇼパさんも、この状況も。
「すみませんね、普段は礼儀正しいんだけど……。他の家ではこういった場で挨拶の邪魔なんてしなかったし、頭の……いや、申し訳ない」
多分続けて鉢巻の件を詫びようとした杉元さんが、ちらりと私を見て気まずそうに言葉を濁す。それにエクロクさんは気にしていないと返して、弟さんにアシㇼパさんを厠まで案内するように言いつけた。立ち上がった弟さんになんとなく目をやって、一つ気付く。
ここにいるアイヌの四人、みんな着物の文様が違って見えた。文様は母から娘に受け継がれていくそうなので、着物の文様で繋がりに気付くこともあるのだけど、この四人の文様はそこまで似通っているようには見受けられなかった。とはいえ状況によっては有り得なくもないし、もともと私にそういった感性が無いに等しいので単純に分からないだけなのかも知れない。
「ムㇱオンカミってどういう意味だ?」
ぎこちなく場の空気が落ち着こうとする中、今度は尾形さんが口を開いた。
日本語が分からない様子のレタンノさんとエクロクさんの奥方だけでなくエクロクさんさえ何も返さない沈黙の中、「おや?もしかして分からんのか?」と挑発的な言葉が続く。
「おい、どういう意味だ」
今度は私を見ながら尾形さんが繰り返し、家の中の視線が私に集まる。
「……すみません、聞いたことがないです」
正直に答えればあからさまに「使えねえな」と訴えてくる視線が返された。
本当に聞いたことがないので嘘ではない。──が、正確にはなんとなく察してはいる。
“ムㇱ”はたしか蝿のこと。だからあれは多分、レタンノさんのオンカミに対する良くない言葉だ。
アシㇼパさんのコタンでは殆ど日本語でやり取りしてもらっていたことも大きいけど、きっと知る必要のない言葉だから私が聞く機会もなかったんだろう。
尾形さんの言葉に一度は黙り込んだエクロクさんだったけど、次には聞いたことがないので方言の類ではないかと言い出した。
確かにあり得ない話ではない。そうは思いながらも、相変わらず強張った表情のエクロクさんの奥方を盗み見る。この人はさっきアシㇼパさんの言葉に吹き出した。意味を知ってるんじゃないんだろうか。
エクロクさんの話を聞いた杉元さんが尾形さんの失礼な態度を咎めるけど、彼は気にも留めずに口角を上げる。
「こいつら本当にアイヌか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の中でもやもやとしていた何かが形になった。そうだ、違和感の正体はそれだ。尾形さんほんとすごいな。
女性については分からない。言葉も理解しているようだし、私とアシㇼパさんの不躾な行動に気付いた素振りもあった。一方で男性陣、特にエクロクさんは限りなく黒に近いと思う。
こうなってくると彼らの目的が分からない今、アシㇼパさんのことが余計に気掛かりだけど、アシㇼパさんをただの子供だと侮っているうちは無暗に危害を加えることはないと思う。アシㇼパさんも、きっとそれを理解したうえで単独行動を選んだんだろう。さすがアシㇼパさんだやっぱりすごい。
とりあえず今は黙って流れを見守ることを決めて顔を上げると、すっかりこの家の人々を信じ切っている様子の杉元さんがいつの間にか私を間に挟んで尾形さんにエクロクさんの耳を見せつけていた。誰も何も言わないけど、杉元さんが一番礼儀も作法もないことしてる。どっちが失礼なんだこれ。「ねっ、なまえさん!」と急に話を振られて「おおん…」と自分でもよく分からない言葉を返してしまった。
「ウンカ オピウキ ヤン!」
その時、背後の窓から見知らぬ女性が顔を出してこちらに向かって叫んだ。女性はすぐに別の男性に連れていかれてしまったけど、その間に言葉の意味を記憶から引き出して、体が硬くなった。
“私たちを助けて”。
恐らく彼女はそう言った。村で一番偉い村長の家の、カムイのための窓から中を覗き込みながら。それだけで現状が想像していた以上に深刻な事態だと理解できた。
「……おい」
「分かりません」
尾形さんにもう一度声を掛けられたけど、アシリパさんの安全が確保されていない今迂闊なことは言えない。
女性の言葉は失礼な発言だと取り繕うエクロクさんの言葉を遮り、今まで黙り込んでいた奥方が同じ言葉を繰り返した。すぐさまエクロクさんに追い出された奥方を気にする杉元さんに視線を送る。
理想は彼らに気付かれずに杉元さんへ事実を伝えることだけど、こうも堂々と尾形さんが疑っていてはやりにくい。まずは尾形さんにこっそり状況を伝えないと、とちらりと隣にある顎の傷跡に視線を移す。
その間も疑い続ける尾形さんに杉元さんが提案したのが、偶然見つけたキサラリをエクロクさんたちに使わせることだった。
「ホントのアイヌなら使い方を知ってるはずだ」と自信満々に言い放つ杉元さん。
「ちなみに俺はアシㇼパさんほどうまく使えなかった。そういえばなまえさんの腕前はどうなんだい?」
「杉元さんと同じくらい酷いです」
「ええ〜?俺別に酷くはなくなぁい?」
正直キサラリだって「この辺りではこう使うんだ」と都合の良いように説明されたらそれまでな気がするけど、レタンノさんとエクロクさんは表情を固くしたまま黙り込んでいる。
「まずは牛山やってみろ!」
「え?俺?なんで俺が…」
本当になんでか白羽の矢が立った牛山さん。全員が見守る中キサラリをマジマジと観察した末に、披露されたモノボケ。が、「全然違うッ!」と杉元さんにダメ出しされてしまった。知らないなりに頑張ったのに牛山さんがかわいそうだ。ちょっと面白かったのに。
次いで杉元さんはキサラリをレタンノさんに渡す。言葉が通じなくても今の流れで何をしてほしいかわかるはず、と微笑む杉元さん。固まるレタンノさん。横から急き立てる尾形さん。
そして始まるモノボケ。村長だと信じているはずなのにジジイ呼びする杉元さんや変な解説をつける牛山さん、まさかのキサラリに座るレタンノさんへの判定を求めて全員が一斉に杉元さんへ顔を向ける光景に、私は私で笑いを堪えるのに必死だ。なんでこんな状況でこんなことをがんばらなきゃいけないんだ。
「なるほど…!!」
ほらあ!
「はあ…もういいよこせ、俺が正しい使い方を教えてやる」
感心している杉元さんに大きくため息を吐きながら、まさかの尾形さんが手を差し出した。「尾形に分かるかなぁ〜?」なんて小馬鹿にする杉元さんからキサラリを受け取る尾形さんの顔を流れで覗いて、思わず二度見した。
笑顔だ。ものすごく笑顔だ。見ているだけで頭の中で胡散臭い、とにかく離れろ、と警鐘が鳴り響く。
それからの尾形さんの行動は一瞬だった。あっ、と思った時には、杉元さんから受け取ったキサラリを流れるようにレタンノさんの足の小指へ強かに打ちつけた。
一拍の後、レタンノさんの「痛たあっ!!」という叫びが家の中に響き渡る。
咄嗟に上がった日本語の悲鳴を訝しむ声が尾形さんと牛山さんから上がる中、それでも杉元さんのレタンノさんを庇う姿勢は変わらない。
もしかして杉元さん、既に事態に気付いていて穏便に事を進めようとしているのでは?と一つの可能性に気付いた時、外から弟さんが戻って来た。案の定アシㇼパさんはいない。
それに気づいた杉元さんが疑問を口に出すと、代わりに答えたのはエクロクさんだった。あの娘は近所の女性に刺繍を教わって夢中になっているそうだ、と。
次に私の視界に映ったのは、息子さんの顔をキサラリで思い切り殴り付ける杉元さんの背中だった。
「アシㇼパさんが“刺繍に夢中”だぁ?てめえ……あの子をどこへやった?」
地の底から這い出てきたかのような声で唸る杉元さんの言葉に、今までの態度が全て本心からだったと確信する中、牛山さんが弟さんの着物の裾から覗くくりからもんもんの彫られた脚を見つけた。尾形さんは最初からこれに気付いて疑っていたらしい。
訪れたコタンにいたのは、アイヌのふりをしたヤクザたちだったのだ。
耳長おばけの恐ろしい雄叫びが、コタン中に響き渡った。
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