おおよそ半年ぶりのコタンに足を踏み入れてすぐ、小さな背丈がこちらへ駆け寄ってきた。再会の喜びを浮かべたあどけない顔に、自然と頬が緩む。

「なまえ!なまえおかえり!」
「オソマ、ただいま。また大きくなったね。元気だった?」
「うん、みんな元気!」
「そっか、それはよかった」

「早く早く、フチに会いにいこう!」と両手で一生懸命私の手を引くオソマに連れられて、コタンの中を進む。大人も子供もこちらに気付くと「なまえだ」「久しぶりだな」「おかえり」と声をかけてくれて、それに返しながら目的の場所に着く。

「フチ!なまえが帰ってきたよ!」

興奮しながら家の中に駆け込んだオソマに続いて家の中に入ると、去年と変わらない姿を見つけてひと際安堵の気持ちが強くなった。目深に巻いた鉢巻きを押し上げて、自分の顔がよく見えるようにする。

「……ナマエ?」
「フチさん、えーと…イカタイ(ただいま)」

まったく上達しなかったアイヌ語で返せば、にこりと微笑んで両手を広げてくれる。
近づきしゃがみこんで肩をさすると、優しく髪や頬を撫でてくれた。時折強めの摩擦が生まれる掌の温かさに、フチさんと再会した実感が湧いてくる。

「今度はいつまでいるの?」
「春頃までお世話になろうと思ってるよ。アシㇼパさんは元気にしてる?」
「うん、今日も杉元ニㇱパと一緒に猟にいってるよ」
「すぎもと……?」
「うん、シンナキサラ」
「シンナキサラ……」

たしか、本州の人間──和人を意味する言葉だ。ということはやっぱり、“すぎもと”は人の名字なんだろう。

「その“すぎもと”って人はどんな人?」
「男の人!顔におっきな傷があって、オソマを食べる!」
「えぇ?それホントに和人なの…?」

意思の疎通さえ怪しそうな情報にちょっと引いていると、チセの入口から物音が聞こえてきた。誰かが入ってきた気配に鉢巻きを目にかかるくらいまで下げた直後、顔を出した二つの人影にオソマが「あ!」と声を上げる。

「アチャ!杉元ニㇱパ!」

最初に目が合ったのは、オソマのお父上のマカナックルさん。オソマとよく似た目がこちらを見てにかりと笑う。

「おお、なまえじゃないか!久しぶりだな!」
「はい、ご無沙汰していました。お元気そうで何よりです」
「この半年どこにいた?誰も山でお前と会わなかったと言っていた」
「相変わらず小樽の周辺でフラフラしてました。狩場にお邪魔してるので、あんまり他の方と鉢合わせない方がいいかなと思って…」

再開の挨拶から話が広がり始めたところで、横から「あー…」と気まずそうな声が聞こえて視線を向ける。

”この時代の人”にしては長身の男性。和装と洋装を併せた格好で、着物の胸元からは何故か子熊が顔を出している。かわいい。そして顔には大きな傷が三本。彼が先ほどオソマが言っていた"すぎもと"らしい。こちらをじっと見つめる力強い瞳からは、ほんのり私への警戒を感じる。

「あんたは…」
「ああ、二人とも初対面だな。なまえ、こっちは杉元だ。数日前アシㇼパが連れてきたシサムだ。杉元、こっちはなまえだ。数年前にアシㇼパが連れてきたシサムだ」
「シサム…ってことはあんた和人か!…ん?っていうかアシㇼパさんが連れてきたって……え?」

見るからに混乱しはじめた杉元さんに、つい失笑してしまう。

「マカナックルさん、間違ってないけど大雑把すぎます。
杉元さん、はじめまして。オソマからアシㇼパさんと一緒に猟をされていると聞きました。アシㇼパさんに戻ったことを伝えたいのですが、ご一緒してもよろしいでしょうか?道中で自己紹介させてください」
「あ、あぁ……ってそうだ、早く戻らないとアシㇼパさんに怒られる…!」

慌てて自分の荷物を漁る杉元さんの姿に、変わらない彼女の気配を感じて思わず顔が緩んだ。


アシㇼパさんと杉元さんは、コタン近くの川でカジカを獲っていたらしい。川に向かう道すがら改めて杉元さんに名前を伝えて、五年ほど前に山で倒れていたところをアシㇼパさんに見つけてもらったこと、一年ほど前からは一人で山に入り猟をして、三、四ヶ月ごとくらいにコタンに戻ってきていることを説明した。

「へえ、じゃああんた──なまえさんにとっても、アシㇼパさんは命の恩人か。確かによく見ると他のアイヌとは恰好が違うんだな」

「あ、マキリと矢筒に模様もない」と不快ではない程度に私を観察する杉元さん。
鉢巻きと手甲を付けて、厚手の股引と尻端折りした男物の着物の上から丈の合わない大きな木綿衣をゆったりとした輪郭で着込んだ姿は、独特の模様から和人にはアイヌの少年に見られる事が多い。でも杉元さんももうしばらくアイヌの人たちと交流を続ければ、髷を結ったり革製の長靴を履いたり、かなり幅の広い襟巻を輪状にして首に巻いているアイヌなんていないことに気付くだろう。

「はい。猟をしていたアシㇼパさんに見つけてもらわなければきっと生きてはいなかったです。…“も”っていうことは、杉元さんも……?」
「ああ、ヒグマに殺されそうなところを助けられたよ」
「わ、アシㇼパさん相変わらずかっこいいなあ…」

子熊をあやしながら横を歩く杉元さんと会話を続けながら、こちらも負けじとその姿を盗み見る。
外套の上からでもわかる立派な体躯に使い込まれた銃を背負い、時折り歩幅の関係で背後に移動する私に常に意識を向けているのがわかる。初めて会った時程の警戒はないけど、油断する気配も一切ない。絶対戦いたくないタイプだ。

「五年前かあ。アシㇼパさん、その頃から山に入ってたんだな。……ん?それでなんであんた、今もアイヌの暮らしを続けてるんだ?」
「…あー、実は──」

杉元さんからの当然の疑問に答えようとした時、進行方向から「スギモトォオオオ!」と地を這う様な怒声が聞こえてきた。途端に横を歩いていた杉元さんが走り出す。

「遅い!いつまで待たせるつもりだ!もう半分以上私が内臓を取り出したぞ!!」
「アシㇼパさんにごめぇん!!後は俺がやります!!」
「……アシㇼパさん」
「ん…?」

懐かしい声と姿に思わず呟いた名前が耳に届いたらしい。険しい顔つきのままこちらを見たその瞳が、大きく見開かれた。
いつまでも、どこにいても変わらない。深い青に緑が散る、澄んだ夜空と海の色。

「……なまえっ!」

走り寄る体を両手を広げて受け止める。ぎゅっと一度お互いに抱きしめあって、それから体を離して顔を見せ合う。

「久しぶりですねアシㇼパさん!また背が伸びました?」
「当たり前だ、お前が出て行ったのは去年の冬の始まりだぞ!」
「いやあ、お土産に良い鹿皮を獲ろうとしたらひと月以上かかっちゃって……」
「加減を覚えろ!」

プリプリと可愛らしい小言に言い訳をしながら、変わったもの、変わらないものに改めて目を細める。
ふと視線を感じて目線を上げると、杉元さんが一人カジカと刃物を持ったままなんだか気まずそうにチラチラとこちらを見ていて、自分のやらかしに気付く。しまった、杉元さんの存在を忘れてた。なんとか誤魔化せないかと薄ら笑いを浮かべたら、同じような顔を返された。


残りのカジカをアシㇼパさん指導の元杉元さんが捌き、それから三人でコタンに戻って、フチさんを手伝ってカジカの入ったキナオハウを作った。久しぶりの温かい汁物に、体の芯からじんわり体温が上がっていくのがわかる。隣で語彙豊かにオハウの味を表現してくれる杉元さんの言葉に、品がないけど咀嚼しながら頭を振って同意する。

「カジカの鍋うめえ……アシㇼパさん、このままでも十分美味いんだが味噌入れたら絶対合うんじゃないの?コレ」
「ふざけるなよ杉元うんこを出すな」

アシㇼパさんのうんこ発言に一瞬引っかかったけど、杉元さんが荷物から取り出した容器の中身に思わず意識が集中してしまう。

「味噌ですか!確かに美味しそうですねぇ…!」
「お、やっぱりなまえさんはわかってくれるか!」
「なまえ…お前も、お前もうんこ食べるのか……!?」
「いや、アシㇼパさんこれは……あっ、オソマの言ってた話はこれかあ…」

杉元さんの食文化を理解できそうで一安心しつつ、ドン引きの顔でこちらを見るアシㇼパさんにどう弁明しようかと頭を抱えた。


***


夜になり、フチさんの機織りの音を子守唄にアシㇼパさんはすやすやと寝息を立てている。
愛らしい寝顔に口元を緩ませながら布団を掛け直していると視線を感じ、顔を上げればこちらを見る杉元さんと目が合った。

「…随分仲が良いんだな」

どこか含みを感じる杉元さんの言葉に、川での出来事を思い出す。ああ、やっぱりちょっと誤解されてるな。色々な意味を込めて首を横に振る。

「山での生き方は、ほとんどアシㇼパさんに教えてもらいましたから。親鳥に続く雛みたいにずーっと付いて歩いていたので、アシㇼパさんにとって私は手間のかかる子分みたいなものですよ」

そう伝えれば思い当たる節があったようで、「確かに、アシㇼパさんなら歳も性別も気にしないだろうな」と笑う杉元さん。短い間でもアシㇼパさんのことをきちんと見てくれているのが分かる言葉に、こちらも笑みが浮かぶ。

「──どうしてここに残っているのか、聞いてもいいか?」

ひと笑いしてから、杉元さんは再びこちらを見た。帽子の下から覗く瞳は炉の火を反射して、チロチロとゆらめいている。その瞳をじっと見つめて、それから視線を炉に落とした。

「わからないんです」
「……」

杉元さんは何も言わない。こちらも気にすることなく話を続ける。

「本州の、西の方だったとは思うんです。ここに来る前の生活も、家族や友人たちの名前も憶えています。
でも記憶にある地名を知っている人には会ったことがなくて、それにええと……ふけん?は、京都という言葉が朧げにわかるくらいで。自分がどこで暮らしていたのか、どうして北海道に来ることになったのか、どこに帰ればいいのか、分からないんです」
「…そっか……」

微笑みながら顔を上げれば、気まずいことを聴いてしまったとありありと伝わる表情で炉の火を見つめる杉元さん。何も言わずに、私ももう一度視線を下げる。

──まあ、半分嘘なんだけど。

過去の記憶がある事と、ここに辿り着いた経緯がわからないのは本当。
廃藩置県とやらに馴染みがないだけで旧国名ならわかるから、住んでいた場所が分からないのは嘘。でも帰る場所が分からないという意味では、半分は本当。
合戦場で斬りつけられて目覚めたら三百年以上先の北の果ての蝦夷地にいただなんて、自分で自分の記憶が信じられない浦島太郎みたいな話を、とてもじゃないけど誰かに言おうとは思えなかった。

「故郷、見つかるといいな」
「…はい」

優しく微笑む杉元さんに、心の中でごめんと謝りながら微笑み返した。
まだまだ故郷には帰れそうにもない。


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