悲鳴が聞こえなくなってから少しして、数人の女性たちがやってきた。
子供達が安心しきった表情で駆け寄る姿を見届けてから近くにいた女性にアシㇼパさんを知らないか尋ねると、杉元さんの向かった方角を指差して教えてくれた。どうやら真逆の方向に進んでしまっていたらしい。
元来た道を戻り、そこからさらに点々と転がるヤクザたちの死体を道標に僅かな懐かしさを感じながら進むと、開けた場所にアシㇼパさんと杉元さんと尾形さんが立っていた。大きな問題はなさそうな姿に一安心しつつ「アシㇼパさん」と呼びながら近付くと、振り返ったアシㇼパさんの目が大きく見開かれた。そばで膝を折って目線を合わせる。
「アシㇼパさん、危険な時にそばにいなくてすみません。怪我はありませんか?」
「…ああ」
「よかったぁ」
そう言ってへらりと笑う私とは違って、向けられているアシㇼパさんの表情は晴れない。
無事に立ち回ってくれていたにせよ、必要のない怖い思いをさせてしまったことには変わりなかったのかもしれない。それに気付いた瞬間湧き出てきた申し訳なさから俯いたら、アシㇼパさんの手がすっと伸びてきて私の頬に触れた。
すぐに離されて見えた親指の腹は赤錆色に汚れていて、アシㇼパさんの表情の意味を理解する。「私のじゃありませんよ」ともう一度笑いながら汚れた自分の手を袖の下に引っ込めて、元の色のままの袖の部分でそれを拭い取った。
さっき抱きしめた男の子の背中は汚れちゃっただろうなあ、と今更ながら失態に気付いて反省する。落ちにくいのに、申し訳ないことをしてしまった。
「……なまえ」
「はい」
「怪我はないか」
「はい」
「…そうか」
そう言って肩の力を抜きつつも曇ったままの表情に、ふと小樽を出る前の晩にアシㇼパさんと交わした約束を思い出して、一瞬謝ろうかと考えたけど、やめた。あの時の約束を、私は破ったつもりはない。
とはいえ改めて見下ろした自分の姿は思った以上に血で汚れていて、さすがにこのままの恰好でアシㇼパさんの近くにいるのはいただけない。
「ちょっと水で落としてきますね」
「……わかった」
アシㇼパさんに声を掛けてから、コタンを見下ろしていた時に一緒に見つけていたすぐ近くを流れる河に向かう。
岸に近づいたところで今来た道から荒い足音が聞こえてきて、振り返ると杉元さんがいた。
さっきは見事にアシㇼパさんしか見ていなくて気付かなかったけど、返り血だらけとはいえ特に怪我もなさそうな立ち姿にほっとしつつ「杉元さんも着物を洗いに来たんですか?」と呑気に声をかけたら、片腕を手荒に掴まれた。
「どうして殺したんだ」
感情を押し殺した低い声。
言われている意味が分からなくてただ見つめ返した先には、今まで向けられたことのない気色の渦巻く目があった。
「あんたも、なまえさんもアシㇼパさんときれいなままでいればよかったのに。俺が、俺に任せておけばよかったのに、なんでっ……」
徐々に震え始める声に耳を傾けていると、あ、そっか、とようやく言葉の意味に気付いた。
そういえば杉元さんには言ってなかったんだった。
今までだって命の危機はいくつもあったのにこういう事態は初めてで、ずっと守ってもらっていたんだなあとこそばゆい気持ちになりながら、いらぬ心労をかけてしまった優しい彼へ明るく声をかける。
「杉元さん」
「どうして、なんで殺しなんて、」
「杉元さん違います、大丈夫です」
「何がだよッ!!」
またしても初体験の私へと向けられた怒鳴り声に、思わず強張ってしまった体から意識して力を抜いて、平静に見えるように振る舞う。
「杉元さん。私、これが初めてじゃありません」
「……え…?」
「人を殺めたのは、初めてじゃないんです。一度や二度でもありません。だから杉元さんが気に止むことなんて何一つありません。私も──」
杉元さんと一緒ですと続けようとした言葉は、口から出る前に止めた。
そういえば今は人を殺したことが明らかになると、正当な理由がない限り殆どの人が捕えられるんだった。
今回の件は杉元さんも共犯だから大丈夫だと思うけど、以前の彼は国を守るために務めとして戦っていたんだ。私の自分勝手な行為と同じなわけないんだから、やっぱり過去のことは黙っておいた方が良かったのかも知れない。
「……」
明らかにショックを受けた表情で、言葉を失ったまま私を見つめる杉元さん。失望させてしまったのかもしれないなあ、と杉元さんの期待通りの私でいられなかったことに、少しの罪悪感が湧き上がる。
「…アシㇼパさんは、知ってるの」
やがて俯き庇で表情を隠しながら、力なく溢した言葉に「これが初めてでないことは」と頷きながら返せば、再び沈黙する杉元さん。背後の河をざあざあと流れる水の音が、急に賑やかに聞こえ始めた。
「…だめだ」
それから間をあけて、再び私の腕を掴む手に力を込めながら顔を上げた杉元さんと視線が交わる。
「なまえさんはこれ以上人殺しなんかしちゃいけない。昔のことだって、何か理由があったんだろ?
大丈夫、あとは俺がやるから。もうこんなことしなくていいんだよ」
そう言って眉尻を下げて微笑み、優しい口調で語りかけてくる杉元さん。
理由があったのは杉元さんだって同じでしょう?
言い返そうと開いた口から音を吐き出すより先に、急に腕を引かれて目の前にあった肩に顔をぶつけた。びくともしない外套に押し付けられた鼻に、血の匂いが直接届く。
「大丈夫、もう大丈夫だよ」
そのまま両腕で抱きしめられて、背中を優しく叩かれる。
もう一度「違うんです」と口にしようとしたけど、言い聞かせるように「大丈夫」と繰り返す今の杉元さんの言葉を私が簡単に否定しちゃいけない気がして、どうしても言えなかった。
***
少しして私から離れた杉元さんは、見慣れた暖かい表情をしていた。「戻ろっか。アシㇼパさんが心配してた」と言う杉元さんに頷いて、後は二人とも無言で着物についた血を軽く落としてからコタンに戻り、女性たちと協力してヤクザの死体を処理した。
彼らは樺戸監獄を脱獄してきた囚人たちで、このコタンを乗っ取り潜伏して旅人たちを殺していたそうだ。死体の中には監禁され無理矢理偽札を作らされていた熊岸長庵の亡骸もあり、贋物の刺青人皮を鑑定してもらうという当初の計画は月形に辿り着く前に頓挫してしまったのだった。
全ての死体を埋めた後、女性たちからのお礼のもてなしを提案されて顔を輝かせる杉元さんはもうすっかりいつもの杉元さんで、少しほっとした。着物を洗った河で引き続きみんなで協力して加工したユリ根の粉を、女性たちが調理して振る舞ってくれた。初めて料理として食べる一番粉は、なめらな舌触りとヨブスマソウの香りをふわりと感じる上品な美味しさだった。
女性たちの言葉を私たちに説明しながら笑うアシㇼパさんも普段通りで、全てが元に戻ったことに安堵してみんなと一緒に笑った。
食事を終えた後、残る問題はもう一つ。樺戸監獄から囚人たちを脱獄させ彼らを先導していた主犯のレタンノ──改め、詐欺師であり刺青の囚人でもある鈴川聖弘の処遇だった。
コタンの女性たちは今日の騒動を全て忘れ去ることに決めたようで、この男にもこれ以上関わりたくないとアシㇼパさんへ伝える。
「面倒だ……殺して皮を剥いでいこうぜ」
「無抵抗の人間まで殺すのか?」
「でも、」
最初に敵意のなかったコタンの人たちを襲わせたのはこの男ですよ。
「……すみません、なんでもないです」
思わずこぼれた言葉を途中で止めて、その場にいる全員から注がれる視線から目を逸らした。女性たちがこれ以上の関わりを拒んでいるのだから、彼女たちの気持ちを私が裁きの理由にしてはいけないんだろう。
とはいえ尾形さんの明確な提案に焦りを感じたのか、「網走から脱獄した他の囚人の情報がある!!」と自ら申告してきた鈴川の言葉に杉元さんが興味を示した。
嘘の可能性を示唆する声もあったものの、結局杉元さんの判断で鈴川の処遇は土方さんたちと合流してから決めることになった。
コタンへの永住を勧めてくる女性たちからの熱いチンポセンセイコールに目に見えて未練を残している牛山さんを宥めつつ、六人で月形に向けて再出発した。
「弱くなんかない。アイヌの女だってしたたかなんだ。このコタンは必ず生き返る」
アシㇼパさんの言葉に応えるように、私たちを見送る女性たちの顔に陰りはない。胸の中に澱んでいた不穏な靄がまた少し晴れた気がして前を向き直ると、牛山さんを引きずっている杉元さんと目が合った。
その顔は鈴川を脅していた時と同じくらい昏い表情をしていて、私が凍りついている間にすぐ逸らされてしまった。
元通りだなんて思い込んでいたのは、私だけだったらしい。単純な胸の内は一瞬で重く沈んでいった。
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