店を出た直後、背後から聞こえてきた店主の「新婚旅行楽しんでおいで」という言葉に笑みと会釈を返し、小さな達成感に浸りながら風呂敷を胸に抱えて歩き出す。

お使いの内容は本当にちょっとしたことだった。
最初に訪れた商店と質屋では、入用で手入れに出した服をダメにされてしまった老人と付き添いの孫娘として洋装一揃えを手に入れた。それから永倉さんと別れて向かった商店で義母に頼まれた白粉を買い、先程の書店では夫との新婚旅行先の候補であるいくつかの地域について書かれた本を親切な店主に相談しながら数冊購入した。

他に買う物はなかったかなあ、と通り過ぎるついでに目を向けた商店の窓に反射した自分の姿を見つけて、にやけそうになる顔にぐっと力を込める。


今の女性たちが着ている和服に袖を通したことがないと掻い摘んで白状した私に家永さんは着付けや髪の結い上げだけでなく、なんと化粧の世話までしてくれた。
着心地が良くて落ち着いた色合いの着物と帯に、すぐに元に戻せるようにと整髪用の油は使わずに結い上げてくれた“英吉利結び”とかいう髪型。おまけに「少し虫が付きにくいようにしましょうね」と家永さんが施してくれた化粧によって、今の私は顔立ちはそのまま、黙っていれば五から十ほど深みを増した淑やかな女性に見えるようになっていた。

白粉の色は白じゃなかったけど他は昔と一緒の紅と黒を使っていたのに、使い方でこんなに出来上がりが変わるなんて思わなかった。五年で私の顔立ちが変わったことが大きいとはいえ、この化粧を昔授業でできていたら間違いなく満点がもらえたと思う。
お陰でお使いでも自分の用事を済ませるために入った店でも極力口を開かずに微笑んでいるだけで、時折背丈にほんの少し驚く様子が見受けられつつもお客様、奥様、と愛想良く呼ばれながら大きな問題なく買い物を済ませることができた。 

いつもの格好だって何かと便利だし愛着もあってとても気に入っているけど、こうして女性らしく装うことも決して嫌いじゃない。「怪しまれないように自然に買い物を楽しみなさい」との永倉さんからの助言にこれ幸いとこの姿を満喫させてもらっていた。


それにしても容姿や知識に技術まで、本当に家永さんには驚かされてばかりいる。
その恩恵に与ってこんなに素敵な姿にしてもらえたわけだけど、髪結い中に借りていた手鏡越しに私の頭に噛り付こうとしている家永さんと目が合った時は本気で心臓が止まるかと思った。あれさえなければなあ。

余計なことまで思い出してしまった頭をさっさと切り替えて、店の人に声をかけられる前に再び歩き出す。
手に入れた物をひとつずつ振り返って買い忘れがないことを確認して、最後の書店で自分のために買った一冊を風呂敷の上から抱きしめる。

旅を始めてから懐かしい味を思い出す機会が増えて、食に対する私の興味はどんどん強くなっていった。
夕張の古本屋で料理について記された本を見つけた時、すごく惹かれたけど旅には無用の物だと分かりきっていたからすっぱり諦めたはずなのにその後もふとした瞬間に思い出しては中身が気になってしまって、先程とうとう「いざという時には火種になるから」と見慣れた綴じ方の本を一冊買ってしまった。

店内でざっと目を通した内容は色々な料理の紹介本のようなもので作り方は特に載っていなかったけど、本当に作りたいものがあったら白石さんにお願いして──。

「……」

そこまで考えて、今朝の出来事を思い出してつきりと胸が痛くなる。


白石さんが土方さんたちと内通している。
朝食前に全員が集まる中でそう言い放ったのは杉元さんだった。

話の流れから察する事しかできなかったけど、どうやら杉元さんたちが積丹に出向いていた時土方さんが三人に接触してきていたらしい。でも白石さんは、彼の正体を杉元さんたちには明かさなかった。
その話をきっかけにキロランケさんも先日のカムイコタンで白石さんがキロランケさんの手を取ることを躊躇したと証言し、白石さんが裏切りに気付かれるのを恐れてこちら側から離れようとしていたのではないかという話が真実味を帯びてしまった。

結局話はそこで一度途切れて今のところ変わらず計画は進められているものの、「この状況ならもう過ぎたことでは?」という殆ど可能性を肯定した永倉さんの言葉に「一度でも裏切った奴は何度でも裏切る」と呟いた杉元さんの目の鋭さは、アシㇼパさんに「殺さなくて済む人間は殺すな」と言われても変わらなかった。

今回の計画が成功して白石さんと再開した時、杉元さんは彼をどうするんだろうか。
あの昏い表情を思い出せばどうしても楽観はできなくて、気付けば下向きになり始めていた気持ちを慌てて引き戻す。今私が思い悩んだってどうにもならない。最後はアシㇼパさんと杉元さんが決めることだとしても、まずは白石さんを助けて話を聞かなければ。
お腹を締め付ける窮屈な太い帯が丸まりかけた背中も一緒に引き締めてくれることが、今はとてもありがたかった。


とにかく用事は済んだ。次は永倉さんと待ち合わせている菓子処に向かわないと、と書店のあった小道を抜けて大きな通りに出る。昼時の今時分、書店に向かって歩いていた時よりも通りはかなり賑やかになっていた。

教わった目印を見つけられるか少し不安を覚えていると、突然背後から下半身に衝撃が伝わってきた。驚いて振り返ってもそこには急に立ち止まった私を咄嗟に避けて通り過ぎていく人しかいなくて、怪訝に思いながら違和感の残る下半身へ視線を下げるとこちらを見上げるどんぐり眼と視線が交わった。

五つか六つくらいの男の子が、私の腰にしがみ付いている。見覚えのない顔は私以上に驚いた様子で固まっていて、その姿を眺めてるうちにピンと来た。

「…母上と間違えちゃった?」

尋ねた途端、眦にじわりと浮かぶ滴。
しまった。そう気付くと同時に大きな泣き声が辺りに響き渡った。

「お、おっかあ゛っ、おっがあぁあああ゛!!」
「ご、ごめんね、嫌なこと聞いちゃったね!」
「う゛わぁーん!!」

慌ててしゃがみ込んで視線を合わせようとするけど、次から次へと大粒の涙が溢れてくる瞳にきっと私は映っていない。強張った小さな肩や腕をさすりながら、なるだけ穏やかに聞こえるように声を掛ける。

「大丈夫、一緒に探すからね。きっとすぐに見つかるよ。さっきまで一緒にいたの?」
「あぁああああ゛!!」
「ほら、まずは涙を拭こうね。鼻は上手にかめるかな?」
「うぐっ、ふぐ……っ!」
「…はい上手、かっこいい顔になったね。
……母上の事、教えてくれるかな?」
「…う゛ぇええええん!!」
「そうだよねえ、泣き足りないよねえ…」

こちらの都合で泣き止んでもらおうなんて勝手な考えは案の定通らなくて、少し休んだことで元気を取り戻した声を前に鼻水の付いた手拭いを折り畳みながら、もう笑うしかない。
忙しい時分だからか周囲の人たちは気付いているはずなのに誰も声を掛けてくれないまま、私と男の子を避けるようにして通り過ぎていく。おまけに近くの店からなんだなんだと顔を覗かせる人々の、興味と迷惑が混ざったような視線がチクチクと刺さり始めた。

これ以上注目を集めるのは避けたい。とりあえずもう少しだけ落ち着いてもらったら道の端に移動して、それから詳しい話を聞こう。
そう決めてもう一度濡れた頬を拭こうとしたら、先ほどまで誰も踏み込んでこなかったすぐ真横に人の立つ気配がした。


「おい」

明らかに自分たちに向けられた声。顔を上げると最初に目に入った濃紺の洋袴にどきりと心臓が波打つけど、すぐにその上の見慣れない芥子色に違和感を覚える。そのまま見上げた頭には杉元さんと同じような軍帽が乗っていて、私が情報を整理しきるより先に目の前の男性は泣き続ける男の子に向けて口を開いた。

「子供といえど、大日本帝国に生まれた男児ならば人前で大声を上げて泣くものではない!!しゃんとせんかッ!!」

予想外の強い口調ととどめの一喝に鼓膜が痺れ、頭の中がまっさらになる。それは私だけではなかったようで、先ほどまであれだけ大声を上げていた男の子も一瞬で静かになった。
そんなこちらの反応なんて気にも留めないで、男性の鋭い視線は次に私へと向けられる。

「あなたもあなただ」
「…え」
「息子をこのような往来で泣き喚かせて恥はないのか。母親ならば甘やかすだけでなくきちんと叱るべきだろう」
「……え、と…」

どうしよう。色々混乱はあるけど、とりあえず勘違いをされていることは分かった。
きっかけはよろしくないがせっかく泣き止んだ男の子を傷付けないような訂正の言葉を考えつつ、この微妙な表情と空気で手っ取り早く間違いに気付いてくれないかなあ、とさ迷わせていた目でチラリと見上げてみたものの、軍帽の下の日に焼けたように健康的な色をした凛々しい顔は変わらず険しい表情でこちらを見下ろしている。
いつの間にか周囲の人のいない空間はさらに広がっていて、何事かと足を止める人まで出始めた。

であればさっさと説明しなければと立ち上がったところで、腕に負荷がかかる。視線を移すと男の子が男性を凝視したままギュッと私の袖を握っていて、小さく息を呑んだ。
知らない私に縋り付きたくなるくらい怖がっている。
思わず伸ばした手で二人の空間を遮れば、男性の眉間の皺がさらに深くなった。

「ああっ、見つけたっ!!」

そのまま持ち上がった肩と同時に開かれた口から再び飛び出してくるであろう怒声に身構えたところで、先に全く予期していなかった方向から激しい感情を込めた声が聞こえてきた。

視線を向けた先、見物人の間から飛び出してきたのはどこか見覚えのある女性で、次の瞬間「おっかあ!!」と私の着物を離して駆け寄る男の子に、既視感の正体に気付く。
女性の着物と帯は、私が身に付けている物と色も柄もとてもよく似ていた。一回り程年上に思える彼女は髪型も背丈も私とは全く違ったけれど、母とはぐれて不安でいっぱいの子供なら見間違えてしまっても仕方がないように思えた。

女性は自分の胸に飛び込もうとした男の子の小さな肩を掴んでぐるりと男性の方へ向き直させると、有無を言わさず頭を掴んで下を向かせながら自分も深く腰を折った。

「よりによって将校様にご迷惑をおかけしてしまうだなんて、大変に申し訳のないことをいたしました!!倅にはきつく言って聞かせますので、なにとぞご容赦をっ…!」
「あ、ああ…」
「ありがとうございます!ありがとうございます……!
ほらっ行くよ!!」

子供が急にいなくなるわ、やっとのことで見つけたかと思えば人だかりの中心で“しょうこうさま”に叱り付けられているわで、彼女もいっぱいいっぱいだったんだろう。
涙声で男性へ何度も頭を下げると、女性は子供の腕を掴んであっという間に見物人の間をすり抜けて行ってしまった。

そして残ったのは、その後ろ姿を無言で見送る私と男性の二人。
居心地の悪い沈黙がしばし流れる。


「……子供の母親ではなかったのか」
「…はい」
「あの親子とは知り合いか」
「いいえ。あの子が着物で私と母親を見間違ってしまったようでした」

今度こそきちんと説明すれば、再び沈黙する男性。気まずそうに視線をさまよわせている間にその襟元に27の数字を見つけた時、咳払いが聞こえてきて目線を上げた先には再び胸を張りキリッと引き締まった顔がこちらを見下ろしていた。


/ top /
home